愚者の戯言 人間の五感と思考
人間はすべての事柄を自分の脳で感じたり、考えたりする事によって理解していると思われます。
すなわち目で見、鼻でかぎ、手で足で触り、舌で味わい、耳で聞きというふうに五体のさまざまな感覚諸器官で得た情報を脳に送り、それらの情報を脳のしかるべき部分で感じ、対応するといったシステムになっている様です。
従って、逆に言えばこうした五感で感じられない事柄については、なかなか信用しない、あるいは否定するといた事がまま有る訳です。
つまり、脳に様々な情報を与え、その情報により、思考の自由な発達と更なる飛躍をうながす役割をになっている端末諸器官が、実は脳のそうした発達を阻害している、といった結果を生んでいる事も事実なのです。
思考が制約されるという事はすなわち人間の行動をも制約してしまっているという事なのです。
たとえば、地球が自転しながら太陽の回りを回っている、という事実が認められるまでにどれだけの歳月と犠牲を費やした事か・・・・。今でこそ、人間が宇宙船に 乗って、地球の外からそれらの事実を直接確認する事も可能な時代ですから、誰もが言外に当り前だと思うでしょうが、当時は、そんな事は思いもよらない、言 い替えれば見る事も不可能、聞くことも不可能、触る事も不可能、舌で味わう事も不可能、鼻でかぐ事も不可能、つまり全ての感覚器官を総動員しても確認(体 感)出来ない超常現象だったわけですから、信じられないのも当然でしょう。
ただここで大切な事は、分らないから素直に分らないと言うだけなら、そこには何も問題はない、そこからは分ろうと研究し、努力する姿勢も生れて来るだろうし、その成果も素直に得る事が出来るでしょう。
しかし、分らないから否定するという事になると、そこからは何も進展しないし、なんの成果も得ることはなく、そのまま停滞してしまう。いや逆行してしまう恐れすらあるという事です。
かって、コペルニクスの説いた地動説を、手製の望遠鏡で裏付けたガリレイがカトリック協会の「異端審問所」の裁判に於て地動説の放棄を誓わされたときに「それでも地球は動く」とつぶやいたという話は、誠によい教訓であるといえます。
今、人間は地球の生体系の頂点に立ち、すべてを知りつくしたような錯覚に陥いり、あたかも地球上の征服者のような身勝手な振るまいを行なっていますが、それらの行動の原点である思考という代物は、この様にまことに危なかしい不確かな物なのです。
その証拠に、今も超常現象と言われる不可解な現象や、未知な事柄には事欠きません。
例えば、UFO・超能力・生命の誕生・死後の世界・神・仏・心霊現象・宇宙の神秘・古代文明の謎等々・・・。
人間の思考と文明
つまり、人間が長い間にこの 地球上に構築してきた高度な文明は、先に述べた様に誠に不確かな、人間の脳味噌による思考によって実現してきたと言えるわけで、言い替えれば、その高度と 思われている現在の文明は、その反面ある部分(人間の五感で体感できない部分)では誠に不確実で、未熟な点が非常に多いという事も出来、いわば、一部分 (人間の五感で体感できる部分)だけが異常に発達した、奇形の文明であるということができます。
したがって、この様な観点から、現代の文明がこのまま物質本位の、目先の利益のみを追及する傾向を続けるかぎり、その将来は決して楽観的なものではないと言う事がいえ、事実、現在の人類は様々な問題を抱えています。
人口増加・飢餓・貧困・南北対立・東西対立・地域紛争・人種差別・宗教問題・環境汚染・環境破壊・麻薬・犯罪・核の驚異・教育の荒廃・家庭内暴力等々、大小数え上げれば切りが有りません。
このような状況の中で、自分という者が心身共に健全な状態で生き抜いて行くにはどうしたら良のいか、不安な気持ちにかられるのは私一人だけではないと思います。
自己の存在についての認識
このような不安感から逃れるには様々な手段があると思います。
現実に真正面から立ち向かっていく人。
現実に悲観し、自暴自棄になる人。
現実から逃避し、宗教に頼る人。
現実は現実として認識し、出来ることから一歩でも着実に前進しようとする人。
現実は無視し、あく迄理想に向かってばく進する人。
現実に無関心で、なるようになるさと思う人。
その他、人によって様々な対応があると思います。
しかし、そのいずれの場合も自分という存在を抜きにしては考えられない、つまり常に自分を中心にして物事を考えている。その自分が存在しないなら、くよくよと考えることもないし、不安になることもない、でも、今自分は確実に存在し様々な不安 にかられている。
ではその自分とは一体どういう存在なのか、なぜこの世に存在するのか、いろいろな世界の諸問題を考える前に、もっとも身近な自己と言うものの存在について実は何も分かってはいないのではないか。
この重要な問題をさておいて、ほかの問題を考えたところで実のある結論は出ないのではないか・・・。
結局のところ、何よりも先に自分という存在をしっかりと見詰め、確実に認識することがすべての問題解決の出発点であるような気がするのです。
私の場合次のように考えるのです。
今、私は三重県伊勢市という所に居ますが、ここからどんどん自分が遠ざかっていく事を想像してみます。
まず伊勢市、そして三重県の全体像が見えてきます。
そして紀伊半島、さらに日本という島国が見えてきます。
もっともっと遠ざかると丸い地球の全体像が見えてきて、その姿は青々として誠に美しい、いかにも生命を育んでくれる母なる地球にふさわしい色をしています。
更に遠ざかると、輝く太陽が見え、その周りを水、金、地、火、木、土、天、海、冥といった惑星がそれぞれの軌道を秩序正しく回っているのが見えます。
さらにどんどん遠ざかると、私たちの太陽系が所属する銀河系が見えてきます。
星々が、密集した球形の中央部より渦巻状に広がっているのが見えます。
そしてまだまだ遠ざかっていくと、あちこちにそうした数々の銀河が見えてきます。
私は専門家ではないので詳しくは分かりませんが、今の私の知識ではこのあたりが限界です。
いずれにしても、ビッグバンに始まったといわれる、このような壮大な宇宙の中の様々な天体が、絶妙なバランスのもとに私達人間には計り知れない、何らかの見えざる力によって動かされていることは科学の認める事実であるといえます。
私達凡人にはとても理解し難い、とても私たちの五感では体感出来ない夢のような世界です。
ただ、ここではっきり言えることは、なにも無いと思われる真空の世界に確かに何らかの偉大な力(エネルギー?)が存在しており、その力によってすべての天体が絶妙のバランスでもって動いている(動かされている)という事実です。その力は、まさしく神としか例えようの無い、偉大な力であると言えます。
さて、私の乏しい知識で、現在位置から精一杯我が身を遠ざけてみましたが、今度はその逆の道をたどって行きます。
様々な銀河が散開する空間から私たちの銀河系に向かいます。
直径10万光年ともいわれる銀河系の中にどんどん入って行くと中心部から3万光年?程のところに太陽系が見えてきます。
ここからは、アメリカが打ち上げたボイジャー1号および2号のたどった道を逆に進んで行けばよいのですから簡単です。
テレビで放映されたコンピューター処理されたあの鮮明な画像を思い起こして下されば良いのです。
氷の惑星、海王星・冥王星・天王星そしてガスの巨大惑星、土星・木星、そして火星、ようやく私たちの地球にたどり着きます。
その後は、地球儀を見て、それをくるくる回せば良い。
小さな島国の日本、その中のほぼ中央付近に位置する三重県、そして伊勢市、我が町、我が家、我が身。
生かされている自分
この様な視点からとらえてみ て先ず言えることは、自分という存在は宇宙というマクロの世界から見るとまさしく点(数学的には位置だけあって面積が無い)に過ぎない存在であり、宇宙空 間に存在する様々な天体と同じ様に目に見えない偉大な力によって支配されている存在であるということです。
その偉大な力を神と呼ぶことに問題があるなら、以後「自然の摂理」とでも呼ぶことにしましょう。
つまり、自然の摂理によって生かされているということです。
その証拠に、今私たちが住んでいる地球は太陽の一惑星ですが、その太陽にも寿命があり、いずれかは段々膨張して赤い巨星となり地球を呑み込んで最後は大爆発を起こしてしまう運命にあるといわれているのです。
そうなることはまさしく自然の摂理であり、その時一人自分だけが生き残ろうと思ってもどうすることも出来ない。
もちろん、そんな事は今の私たちには絶対といって良いほどの確率で起こることは無い。
しかし、このまま人類が地球上に在り続けるとして、いつかは私達の子孫がそうした時に遭遇しなければならないということは間違いありません。また、もっと身近なことでは天変地異が在ります。
かって私達は地球の大地は揺るぎないものと思い込んでいました。ところが、その大地がいくつかのブロックに別れており(プレート)、それぞれがマントル対流と称し海中に在る海嶺よりせり上がり海溝に沈み込んでいくといった活動をしている。
そして驚くことに何億年の間に大陸の形まで変えてしまっている。身近な例では、伊豆半島が太平洋を移動して本州に突き当たり、その歪が原因で日本アルプスや富士山が出来たという話。
また遠くはインドが同じ様に海を移動し大陸に突き当たり、その時の歪でヒマラヤ山脈が出来たという話。すべて嘘のような本当の話です。
このように、私達が身の置きどころにしている母なる大地でさえも例外なく「自然の摂理」によって動いている(動かされている)。
すなわち、それらに大きく依存している私達は、まさしく「生かされている存在であるということは間違いの無い事実であると言えます。
もちろん私達には自分の意思が在り、自分の力で生きているという事実も否定できません。
しかし、それはあくまでも極めて限定された時間と空間の範囲内でのことなのであり、その空間や時間も宇宙という大きな枠組から決して独立したものではなく、やはり自然の摂理の手の内に在るのです。中国の明代に書かれた、有名 な「西遊記」において孫悟空がお釈迦様の手のひらから逃れることが出来るかどうか競いあった時、きんと雲で最果て迄つっぱしり、ここまで来ればもう大丈夫 だろうと思った時、突然お釈迦様の指がその先に現れ降参したという話は、この事をよく比喩しています。
生命の尊厳と平等
これらのことから、この地球上に生きとし生けるものすべてが生かされているという点において、全く平等な存在であり、決して人間だけが偉大なのではなく、その生命の尊厳は等しく平等なのです。
言い換えればそれぞれの役割りを担って生かされているだけに過ぎないのです。
例えば、動物や植物が人間に食料として利用されていたとしても、それは本来の役割を果しているだけであり、それが人間の絶対的な優位を示すものではないのだということです。
その証拠に、動物や植物のすべてが絶滅したとしたら人間は生きていくことができないのは明らかです。
この様に「自然の摂理」の元にすべてが共存しているのであって、これらは決して人間の一方的な従属物ではないのであり、レジャーとかスポーツと称して、必要も無いのにむやみな殺生をすることなどもってのほかであるといえます。
こうした観点からすると、現在の文明がいかに人間の独善的な思い上がりによって成り立っているかということがはっきりと見えて来ると共に、政治・経済・科学・宗教・教育・人生等その他あらゆる分野において、そのあるべき理想の姿が導き出されてくるのです。
このあたりは長くなりますので後に述べる事とします。
強い存在としての自分
さて話を元に戻します。人間の存在は自然の摂理により生かされているまことに弱い存在であり、決して地球の征服者ではないのだということを述べましたが、その反面、誠に強い存在であるということもいえるのです。
なぜなら、如何に微小な存在であろうと人間も宇宙を構成する一要素であり、宇宙全体を動かしている「自然の摂理」がこの小さな肉体にも内在しているといえるからです。
それは、人間の肉体が「神秘の小宇宙」などと表現される様に、宇宙そのものであるというところから証明できます。
例えば、特定の精子が卵子に頭を突っ込み受精すると卵子は細胞分裂を繰り返し成長していきますが、その時点で既に精子の頭部に含む染色体により個性が形成されつつあるのです。
その個性は染色体の中のDNA(デ オキシリボ核酸)という螺旋状をした構造の遺伝子に組み込まれており、RNA(リボ核酸)よって運搬され個々の細胞に余すことなく伝えられていき、その情 報によって細胞が増殖し、それぞれの役割を持った諸器官が形成され、特定の個性を持った人体が形成されていくという事実、これだけを取り上げてみてもとて も人間業の及ぶところでは無い、まさに「自然の摂理」によるものなのです。この他にも、様々な興味深い神秘的な事実が無限に内在しているのが私たちの肉体なのです。
残念ながら、ここでも私の専門知識が乏しい為、具体的な説明はうまく出来ませんが、この辺りは以前NHKに於て放映された「驚異の小宇宙・人体」という番組においてよく説明されていますのでレンタルビデオでも見て頂くとよく理解できるものと確信します。
いずれにしても、私たちが脳 味噌で意識するしないに関わらず、心臓は脈打ち続け、血液が身体中をかけめぐっているし、その他の内臓諸器官もそれぞれの役割を果し続けていることは確か なことであり、それは脳が眠っている状態であっても人間が生き続けている事からも明らかです。
つまり、人間の脳味噌で考える思考を超越した部分で私たちの肉体は存在し続けているという事なのであり、言い替えれば「自然の摂理」がこの肉体に内在しており、この肉体は「自然の摂理」そのもの、すなわち宇宙そのものであるという事なのです。
もっとうがった見方をすれば人間は神(自然の摂理)そのものであるとも言えるのです。
このように、人間は「自然の 摂理」によって生かされている誠に弱い存在であると同時に、その偉大な「自然の摂理」そのものであり、五感に制約された(仏教的な言い方をすれば現世の煩 悩にとらわれた)脳味噌の思考にとらわれる事なく、あくまでも自然に、あるがままに、自由に在り続ける事ができたなら、五感によって得られる情報を最大限 に正しく生かす事が出来ると共に、神に等しい強大な力を持つ存在となり得るのです。
古来、そうした超人的な力を我が物にしようと様々な手段が用いられてきました。
一部の宗教もしかりです。
しかし、私に言わせれば「我 が物」にしようと考えた時点で、もう「自然の摂理」の道から外れてしまっているという事であり、第一に「自然の摂理」の例え一部でも知り得たならば、それ を人間だけの独善的な目先の利益のために利用しようとするのでは無く、その摂理に従おうと努力をし続ける事が大切なのだと考えます。
そして、第二にその努力の過程に於て、自分という存在が神に等しい存在であるという強い認識と信頼の元に、全身全霊を打ち込んでいく姿勢が大切だと思うのです。
そうした過程で人間の思いもよらない力が必然的に自然発生的に授けられるのだと思います。
決して求めるのでは無く、与えられるのです。利用するのでは無く、従うのです。「火事場の馬鹿力」という諺は、見方を変えれば忘我の境地で(脳味噌によって意識する暇も無く、あるが侭の状態で自然の摂理の元に身をゆだねて)事にあたれば、思いもよらぬ力を出すことが出来るといった意味にも解釈出来るのです。
生かされるまま生きる
長々と、独断と偏見に満ち満ちた戯言を述べて参りましたが、更に続けさせて頂くと、結局宇宙は人間が地球上に原種の一個の生命体として誕生する以前から存在しているのであり、その中で私達は自分の意識を超越した偉大な力により、まさしく無から誕生し進化を遂げてきた。
そして次々と生まれ、与えられた生を全うし次々と死んでいく。私たちの肉体が朽ち果てた後も宇宙は悠久の時間を刻み続けていく。
つまり、私達人間は生命の誕 生の秘密を知らなくても、又死後の世界を知らなくても、宇宙が続く限りどこかで在り続けていく事だろうし、在るが侭に、生かされるままに、眼前に迫り来る 瞬間瞬間を精一杯真正面から消化していくしか道は無く、そうする事の結果として、もし死後の世界が在るとするなら、ふさわしいところに行けるだろうし、輪 廻転生とか称して生まれ変る事が在るとするなら、ふさわしいところに生まれ変るだろう。
要は「生かされるままに生きる」「在るがままに在り続ける」という一見極めて簡単な事が大変重要な事であり、又それは私達にとって選択する余地の無い険しくも尊い道で在ると言えるのです。
こんな事を言うとそれこそ変人、奇人扱いされかねませんが「自然の摂理」を「神」と置き換えて言うと、宇宙が神なら、人間も神、植物も神、動物も神、水も空気も神、路傍の石ころも神、ことごとく神なのです。
もっと角度を変えれば、幸福も不幸も喜びも悲しみも苦しみも楽しみもすべて神の思し召しなのであり、なんぴとたりとも逃れる事は出来ない。
真正面から取り組んでこそ次の在るべき道が開けてくるのだと思います。
もし、死が恐ろしいと思う人が在れば、精一杯恐ろしがればよい。
逃げてはいけない。
死を超越するには、死に真正面から取り組み、その中から道が見付かるはずです。
又、もし生きるのが恐ろしいという人がいるなら、精一杯恐ろしい思いをすればよい。
逃げてはいけない。生を全うするには、生に真正面から取り組むしかない。
その中から必ず道が開けるはずです。
死が恐ろしいため自殺してしまう。
生きるのが恐ろしいために自殺してしまう。
世の中にはまま在る話ですが、これは真正面から取り組むことなく、身勝手な自分の意志により、「天寿を全うする」という「自然の摂理」から逃れてしまった、脱落してしまったという事であり、それこそ、その先には恐ろしい世界が開けているのかも知れないのです。
人生について
かって人生は五〇年といわれ、今や八〇年、いや九〇年になんなんとしています。
一口に八〇年といっても、長い棒の様に固定された状態で人生があるのではなく、一瞬一瞬を生きているだけに過ぎない、その結果として八〇年生きたとしても、結局生きている実感を伴うのは今のこの一瞬に過ぎないのです。
そしてその一瞬も次から次へ過去のものとなっていく、今私がこうしている間にも、私の肉体の細胞の一つ一つは老化し、あるいは死滅し、あるいは再生している。
一秒前の私と今の私は厳密にいえば同じ肉体ではないのです。それこそ刻一刻と変化を遂げているのです。
つまり、私達が長いと思っている人生は、実は一瞬のうちに過ぎ去っていく誠に刹那的なものだといえるのです。
従って、私達にとって大切なことは、今この一瞬を精一杯生きるということであり、それは前に述べたように私たちにとって選択する余地のない「自然の摂理」によって与えられた一瞬を生きるということなのです。
過ぎ去った過去をくよくよすることにより、今の大切な一瞬を無駄に過ごしてしまう。
来るか来ないか分からない先のことを思い悩むことにより、貴重な一瞬をふいにしてしまう。
だれでも思い当ることです。人間である限り、過去を懐かしんだり悔やんだり、未来を夢見たり不安に感じたりすることは極自然なことであり、そうしたことを皆無にすることは出来ません。
しかし、その事が今という大切な一瞬を生かすための障害となるようなことがあってはならないということなのです。
ある週刊誌の漫画に面白い逸話が書かれていました。
ある男がお釈迦様に「私が死んだら、どんな世界へ行くのでしょうか。あなたなら知っているでしょう。」と聞きました。
しかしお釈迦様は黙して答えません。
それでもその男があまりにしつこく聞くので、ついに沈黙を破り、「あなたは来るか来ないか分からない先の事の為に、よく今という大切な時間を費やすことができますね。」と言った・・・・。
そんなような話でしたが、週刊誌の漫画と言えども、誠に意味深い一コマでした。結局、人生とは、(自然の摂理によって与えられた)一瞬一瞬を(自然の摂理によって与えられた)自らの力を信じて全身全霊を込めて、生かされるままに生き抜いていくことに他ならないと思うのです。
人生八〇年の、八〇年間というのは実態のない、記憶だけの幻の様なものであるけれど、ある瞬間瞬間には確かに自分というものが存在していたし、いまこの瞬間もそうなのだ・・・・。
何か般若心経を彷彿とさせるようなところがあります。
体験する事の大切さ
私事でまことに恐縮ですが、私が独立して間もない頃、果たして仕事が来るかどうか、来たとしても生活していけるだけの仕事量があるかどうか、誠に不安な気持ちにかられていました。
ところが案に相違して、開業してみると自分一人では処理し切れない程の仕事量があり、逆に如何に処理したらよいか悩み切ってしまいました。
断れば次から仕事が来なくなるかもしれない。
忙しいのは今だけかもしれない等々様々な思いが駆け巡り、結局断り切れないで自分の処理能力以上の仕事を抱えてしまい困り果ててしまいました。
一つの仕事をやりながら、それを一時中断して、横に山積している次の仕事のことを考える。
そしてどうしようかと溜息をつく。そして又、今の仕事に戻る。 ところがやはり次の仕事が気になる。
結局、今やっている仕事の能率が下がり、その処理が遅くなることによって次の仕事も遅れてしまう。 いわゆる悪循環と言う事態です。
そんなことを続けていた結果、ある日突然知らない間に頭髪の一部が抜け落ちているのに気付き、それが「円形脱毛症」であるということが分かりました。
ストレスとは恐ろしいもので、自分ではそんなに感じていないのにも拘らず、そうした現象が突然現われてくる。
そのうち「ハゲ」はあちこちに飛び火し、何か所にも及びました。
やむを得ず病院通いとなりましたが、完治する迄に1年以上の期間を費やしてしまいました。
それでも相変わらず仕事量は多く、このままではそれこそノイローゼになって、本格的な病気になってしまうのではないかという危惧を抱き、非常な不安にかられました。そんな時、次の様に考えまし た。「まてよ、一つの仕事をしながら次の仕事の事を考えていても、結局今の仕事もはかどらないし、ひいては次の仕事に手をつけるのも遅れてしまうではない か。」今、目の前にある仕事をわきめもふらず一生懸命処理すれば、その仕事は早く終わり、次の仕事にも早くかかかれる。
つまり、今という瞬間を、ただひたすら全力を挙げて処理する事が、次の仕事を早く処理する事につながるのだという事に気付いたのです。
これは至極当り前の事であり、なにも難しい事では無い。
しかし、現実にどっぷり漬かって居るとなかなか気付かない、理屈では解っていてもなかなか身に付かない、それが現実なのです。
しかし、自ら実体験する事によってこのことに気付いて以降、私の心は平穏を取り戻す事ができ、今は出来ない事は無理をせず、出来ない、と礼を尽くして説明しお断りする。
出来ると返事したものは、たとえ徹夜してでも 一生懸命その仕事だけに集中してやり遂げる。
すなわち、目の前にある現実から目をそらす事無く、それを処理するべく、ただひたすら全身全霊を込めて取り組んで行く事によってのみ未来が開けてくるのだ、という心境に達すると共に、実際の行動に反映させる事ができる様になったのです。
理屈で考える事は簡単ですが、やはり実際に体験しない事にはなかなか身に付かないものなのだなあとつくずく感じた次第です。
自在の心を持つ
私は家庭事情が複雑で、高校を卒業して就職してからも「おれが世の中で一番苦労をしているのだ」といった妙な自負心に囚われていました。
ところがある日、年下の女の子に言われました。「あなたは、曲りなりにも両親が健在ではないですか、私の場合は片親しか居ません。
あなたは自分一人が苦労を背負って居るような事を言いますが、それ以上の苦労をしている人も居るのですよ。」・・・・。その時のショックはいまだに忘れられません。
そうです、上を見れば切りがないし下を見れば切りがない。
要は、同じ事でも心の持ち方一つで、幸せにも不幸にも感じるのです。
そんなとき、亡き松下幸之助氏の「PHP道を開く」と言う小雑誌を知人から戴き、その中に次のような事が書いてありました。
この一節を呼んだ時、私はまさしく目から鱗が落ちる思いをしました。「逆境・それはその人に与えられた尊い試練であり、この境涯に鍛えられてきた人は誠に強靭である。古来、偉大なる人は、逆境にもまれながらも、不屈の精神で生き抜いた経験を数多く持っている。誠に逆境は尊い。
だが、これを尊ぶあまりに、これに囚われ、逆境でなければ人間が完成しないと思い込む事は、一種の偏見ではなかろうか。
逆境は尊い。しかしまた順境も尊い。
要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きる事である。
謙虚の心を忘れぬ事である。
素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚れを生む。
逆境、順境そのいずれをも問わぬ。
それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。
ただその境涯に素直に生きるがよい。
素直さは人を強く正しく聡明にする。
逆境に素直に生き抜いてきた人、順境に素直に伸びてきた人、その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ。
おたがいに、とらわれることなく、甘える事なく、素直にその境涯に生きてゆきたいものである。」
まるで私のために書いて下さったような文章なのです。
このときから私は、考え方が変わりました。
人生に喜怒哀楽はつきものです。しかし、心を自在に持つことができればどうという事はない。
すなわち、苦しい時や悲しい時には心の物差を大きく持てばよい。心の物差の目盛りを大きく持てば、どんな苦労もどうと言う事はない、すべて小さく感じる事ができるのです。
又、楽しい時や嬉しい時は心の物差を小さく持てばよい。
そうすればどんな小さな喜びもとてつもなく大きな喜びとして感じる事が出来るのです。
要するに心の持ち方を自在に変化させる事が出来れば、苦しみや悲しみはより小さく、喜びや楽しみはより大きく感じる事が出来るのです。
自由な心、それは貧乏人であろうと、富めるものであろうと全く平等なのです。
たとえ肉体は鎖につながれていたとしても、心の自由は束縛する事は出来ない。
つまり、心の自由はすべての人々に平等に与えられた特権でもあるのです。
人間の究極の幸せは、やはり心の安らぎと平穏を得る事だと思います。
いくら物質的に恵まれていても、心が乱れていたのでは決して幸せとは言えない。
逆に言うなら、物質的に恵まれていなくても、心さえ平穏で安らいでさえいたならそれ以上の幸せはないとも言えるのです。
どんな境遇に置かれようとも既成の固定概念に囚われる事無く、心だけは自由に持ち続けたいものです。
物事を自在の心でとらえる。またしても私の独断と偏見によるところ、般若心経で言う「観自在菩薩」とはこのことではないか、すなわち「物事を自在の心で観る(とらえる)ことのできる、悟りたるもの」と言う意味ではないかと思うのですが、さていかがなものでしょうか。
同じことを何度も繰り返しま すが、私達は選択する余地のない(自然の摂理によって与えられた)一瞬一瞬を(自然の摂理によって与えられた)みずからの力を信じて全身全霊を込めて、生 かされるままに生き抜いていくのですが、そこにこの「自在の心」がプラスされれば「鬼に金棒」ということになるのではないかと思う次第です。
宗教と科学の関係
宗教と科学と言うと、世間一般の常識からすると全く相反するものの様にとらえられがちですが、私に言わせれば宗教も科学も「自然の摂理」をひもとくということでは全く同じなのです。
ただ、宗教は主として「五感の領域外」を担当し、科学は主として「五感の領域内」(直接五感で体感出来ない事象でも、測定機器等を通じて間接的に体感できる場合も含める。)を担当しているに過ぎないのです。
ただ、前にも何度も述べた様に「五感の領域外」のことは殆どの人達が感じられないことだけに、いきおい宗教は「うさんくさい」とか「まやかし」とかいわれることが案外多いのです。(もっとも、確かに一部問題の多い宗教団体もあることは否めませんが。)
従って、一部の科学者が宗教の領域に科学のメスを入れようとすると様々な障壁に突き当たってしまう。
例えば、直接目に見えた利益を得ることが無いからスポンサーが付かない。
また、あまり科学の目にさらされると既成の宗教の威信に傷が付く事を恐れ圧力をかけられる。
あるいは、宗教を科学するなどと言うと頭から変人扱いされてしまい、出世の道も閉ざされてしまう。等々・・・・・。
このような理由からどうしても遠ざかってしまう。
しかし、繰り返しますが宗教も科学も「自然の摂理」をひもとく為の手法の体系であるということでは全く同じ次元なのです。
ただ主たる担当分野が違うだけのことなのです。
その証拠に、天動説と地動説の問題の様に、かっては五感で体感できなかった為に宗教の領域であったものが、科学の発達によって否応なく白日のもとにさらされてしまった結果、今や科学の領域に変わってしまったという事実があるわけです。
「幽霊の正体見たり枯れ雄花」といったところです。
結局、「自然の摂理」は辺り に無限に、しかも万遍なく満ち満ちているのであって、その一部のみをとらえて科学だ宗教だと言ってみてもはじまらないし、また「自然の摂理」をどこからひ もとこうと、さらにはひもとこうがひもとこまいが、そうした人間の行動に関係なく、それらを超越して私達を包含した宇宙は、その「自然の摂理」のもとに悠 然と在り続けていくのだ、という根本を忘れてはいけないと思うのです。
かの有名な、アインシュタイン博士は偉大な科学者であったと同時に偉大な宗教家であったというのはこのことを良く説明しています。
宗教の在り方
これらの事から、宗教の在り方についてもおのずから導き出されてくるのです。
先程、宗教は「自然の摂理」をひもとく為の手法の一体系であると申し上げましたが、自然の摂理つまり真理(ここでは以降「自然の摂理」の事を「真理」と呼ぶことにします。)をひもとく手法は無限に在ると思われます。
一億人の人がいたら一億通りのやり方があっても不思議ではない、当り前の事です。
事実、世界の宗教は三大宗教を含め数え切れないほど存在します。
そして一つの宗教の中にもこれまたたくさんの宗派があり、そのそれぞれが様々な手法により様々な活動を続けています。
これも当り前の事なのです。
ところが、私にとって不可解な事は宗教同士の争いが絶えない、全く別の宗教ならまだしも同じ宗派の中でも争いが絶えない。
有名な歴史的事実の一例と し、ユダヤ教とキリスト教の抗争、キリスト教とイスラム教の抗争、イスラム教とヒンズー教の抗争、そして同じキリスト教の中でのカトリックとプロテスタン トの抗争、日本においては代表的なものとして仏教伝来の六世紀頃、日本古来の神道を擁する物部氏と大陸から伝来した仏教を擁する聖徳太子、蘇我氏の争いが あります。
この様な大規模で悽惨な争いは別としても、多分に排他的、攻撃的な性格をおびた宗教が案外少なくなく、大小の争い事がよく見受けられます。
これらの事は、「真理」をひもとく上での手段、手法についてのそれぞれのこだり(執着)や、現世的な利害が原因となって起こるのではないかと思われますがよく分からないところです。
これは、例え様が悪いかもしれませんが「真理」を「ご飯」に例えると、箸で食べようが、スプーンで食べようが、手づかみで食べようが、要するにご飯が食べられれば良いのであって、箸だ、スプーンだ、手だといって喧嘩している様なものだとしか思えないのです。
「真理」をひもとく(探究する)という最も大切な事をないがしろにして、その手段手法について争うなどということは、まさしく愚の骨頂としか言いようがありません。
また、宗教と言うと組織という事がすぐ思い浮かびますが、それほど各宗教は組織作りに精力を費やしているのです。
組織という物はひとたび出来上がってしまうと、良かれ悪しかれ一人歩きをしてしまう傾向があります。
例えば、効率的な宗教活動をするのに組織が必要だとします。組織があるから効率的な活動ができるとなります。
それが、組織が無ければ効率的な活動が出来ないという事になります。
そして最後には組織を維持拡大する事が最大の活動だという事にすりかわってしまい、宗教団体同士で信者の取り合いをし、それが原因で抗争が起こるといった恐れも出てくるのです。
更に、組織は権力を生みます。
するとその権力を手に入れようとする人達が出てきます。
そして、権力を得るのが目的で組織に加わる者も出てきます。
すると、本来の活動はないがしろになり権力闘争に明け暮れるといった事態になる恐れもあるのです。
これは決して悪意で言っているのではなく、組織という物は一般的にそうした魔力を備えているのです。
これが一般の企業なら業績を上げると言うはっきりした有形の目標がありますから、チェックもしやすいしその手法も整っている。
業績が悪ければトップを交代させたり、縮小したり、身売りしたりという形で手も打てる。
ところが、宗教活動の成果などと言う物は本来目に見えない無形の物を扱っているだけに評価のしようが無い。
有形の物と言えば、信者の数とお金の額ぐらいしかなく、それが本来の活動とは縁遠い物であるだけに、より大きな危険性をはらんでいるといえるのです。
結局、私の思うところ宗教は個人単位で実践する物であり、自分の肉体は自分の本業で食べさせていく、決して宗教を生業としてはいけない。
個人個人がそれぞれのやり方で、それぞれのレベルに応じて実践していく。
そうした中で、高いレベルに達した者は原則としてその手法や考え方を公開し求められれば自分のやり方や考え方をてほどきする。
また、一つの手法や考え方に執着してはいけないし、不当なものでない限り、ほかの手法や考え方を否定したり攻撃してはいけない。
あくまでも自在の心を忘れずにお互いを認め合う。
さらに、いかに高いレベルに達しても決して他人に強制してはいけないし私物化してもいけない、ましてやそれで金儲けをもくろむ事などもってのほか。
なぜなら、真理は宇宙全体を満たしているものであり誰の物でも無い、たんに人よりすこし早く気付いただけにすぎないからです。
そして、個人個人を基本とした連絡網や通信手段あるいはマスメディアがあればそれに越した事は無い。
つまり、縦の組織では無くそれぞれ対等の立場での横の同時大量の連絡手段をもてたとしたら現在の宗教とは全く違った形態が発現するかもしれません。
ハイテク全盛の今日、あながち夢では無いような気もするのですが如何がでしょうか。
宗教とは何か宗教というような言葉を使うから、宗教とは何かと言った疑問が湧いてくる。
何度も述べた様に、宗教は 「自然の摂理」を知ろうとするための行為そのものの事であり何も特別変わった物でも何でも無い、私がここまで述べてきた「愚者の戯言」の全ても「自然の摂 理」をひもとこうとしている行為であるということから私なりの立派(?)な宗教だとも言えるのです。
従って、宗教とは特別の人が特別の形式を持って特別の場所で特別の組織や特別の意味を持って行う物では無く、誰もが(老若男女、貧富を問わず)形式にこだわらずいつどこででも自由に取り組め、実践することができるものなのです。
堂塔伽藍も、仏像も、きらびやかな衣装も、厳かな雰囲気も、お経も、バイブルも、剣もコーランも特に必要では無いのだとも言えるのです。
そして、その範囲も手段手法も決して限定された物では無く全くの自由で無限なのです。
例えば、この世に生まれ落ちたまま、何の疑問も持たず宗教とか真理とか自然の摂理などと言った事は一度も考える事無く、ただひたすらあるが侭運命のままに生き一生を全うし、安らかな満足感の元に死んでいく人があれば、その人に宗教は必要無い。
なぜなら、その人は生かされるままに生きるという自然の摂理そのものを知らず知らずのうちに実践しているからであり、従って特別に自然の摂理を知ろうとする行為は必要ないからです。
私の様に変な理屈をこね回したり、中途半端な修業をしている人間に比べたらはるかに高いレベルの人だと言えます。
さて、ここで宗教とは切っても切れない関係にある「死後の世界」について少し考えてみましょう。
もし、死後の世界があると仮定するなら、人間は肉体が朽ち果てても別の形で存在し得るということになります。
つまり人間は「肉体+α(アルファ)」で構成されており、肉体が滅びた後、「プラスアルファ」の部分が何らかの形で存在し続けるということなのでしょうか。
ここから先は、いわゆる五感によって体感出来ない領域なので、うっかりしたことは言えません。
ただはっきり言える事は、様 々な体験者のレポートを元にアメリカの著名な医学者達(アメリカの神経科医レイモンド・ムーディ博士、同じく著名な女性医学者E・キューブラー・ロス女史 等)が「プラスアルファ」の存在を事実と受け止めている事、又いくつかの大学(シカゴ大学、東ノースカロライナ大学等)で、その存在を前提とした研究に着 手しだしたということは事実の様です。
この様に、人間の死後、もし 肉体とそれ以外の何物かに分離するものとしたなら、今の宗教が独壇場としている死者の弔いの少なくとも遺骸の埋葬や墓地の管理等の部分は、「プラスアル ファ」の部分を正しく処理することさえ出来れば(処理できるかどうか分からないが)、遺骸は抜け殻であるという見地から、別に他の専門会社などで行っても 良いのではないかといった、常識はずれな考え方も可能になるのです。
もっとも、誰にもはっきり分からない世界の事ですから、あまり変わったことを言ったり行ったりすると、それこそ「バチ」が当たりかねませんのでこの辺で止めておきます。
ただ、前にも書いたように、ここではっきり言える事は死後の世界が有ろうと無かろうと、又知ろうと知ろまいと、生かされるままに生き、そして死んでいくならつまり「自然の摂理」に身を任していれば、来るべきものなら来るだろうし、来ないものなら来ないだろう。
何も心配する事は無い。
何故なら「自然の摂理」は私達がこの世に生まれる前にも、又死んだ後にも厳然と永遠に存在し続けるからです。
話がそれましたが、結局宗教が「自然の摂理」をひもとくための手法の体系で有るとすれば、どんな宗教も求めるものは同じであり、ただやり方が違うだけだという事になります。
こう考えれば何も同じ目的を持って活動しているものが、単にやり方が違うというだけで他を否定したり、あるいは血を流してまでいがみ合う理由は何も無いのです。
そして、「自然の摂理」の前にはたとえ神であろうが、仏であろうが、ことごとく従わなくてはならない、「自然の摂理」が神だとしても、神自身も又、それから逸脱して勝手気侭には出来ないのだということです。