気でみるあの世とこの世

まえがき

  皆さんも経験があるかもしれませんが、私は幼い頃よく死について考える事がありました。

  死んだらいったいどうなるのか? 

  今、目にしている事も見る事が出来なくなる。

 今、聞いている様々な音も聞くことが出来なくなる。話す事も出来なくなる。

 友達や父や母とも会う事が出来なくなる。

  そんなふうにいろいろ考えていくと、ただただ無性に悲しく寂しくなり、どんどん気持ちが落ち込んで行き、涙が止まらなくなるのです。

  ある時、家族みんなでラジオを聞きながら炬燵に入ってだんらんしていると、ふとそんな事を考え始めました。

 そのうちだんだん悲しくなり、突然泣いてしまいました。

  一緒に居た姉が「なんで泣くんや?」と聞きますが、説明する事が出来ず泣き続け、結局「おかしな子やな」という事でその場は過ぎて行きました。

  その後大きくなってからも時々そんな気持ちにおそわれる事がありましたが、当時は

 「死んだら見る事も聞くことも考えることも無くなる。
 ということは、何も感じることがないのだから、当然悲しいことも苦しいことも寂しい事も無い。
 要するに何も無い。
 こんな事を考える事も無い。
 だからどうということはないのだ。
 どうということもないと考える事すら無いのだ。」

 と無理矢理納得させていました。

 成人して社会人になってからは、とにかく忙しい毎日で、そんな事を考える余裕もありませんでした。

 結婚して子供が三人出来ましたが、長女が二歳くらいからひどい小児喘息になり、医者にかかっても根治させる特効薬も無く、まさしく神仏にすがってでも治したい思いでした。

 そんな時友人からある先生を紹介してもらい、会わせてもらいました。

 その先生は古神道に通じているとの事で、先祖を正しく祀ることにより全ての災厄からのがれられるとのふれこみでした。

 早速高いお金を払い(昭和62年頃百数十万円)先祖祀りをしてもらいましたが、子供の喘息は一向に良くなりませんでした。

 ところが子供ではなく、自分自身に激しい変化が起こってしまいました。

 どういう変化かと言うと、今まで何も感じる事のなかった霊的な存在が、自分の肉体の内外を問わず波動として手に取る様にわかるのです。

 先生に「君の様に敏感で進歩の早い人は初めてだ。 先祖に高いレベルの人が居ただろう。」と言われました。

 確かに、祖父がまじないで他人の病気を治したりしていたという話は聞いてはいましたが、果たしてそれがそうなのかは皆目分かりません。

 あとは子どもの病気の事はそっちのけで、自分の修業に打込む有り様でした。

 修業というよりは、家族を含めた身の回りに居る恐ろしいものが分かる為、ただただそれらから逃れたい一心で悪戦苦闘すると言った方がふさわしい状況でした。

 その結果、次々と色々な事実が分かってくると共に、それらに対処する有効な手段がわかる様になっていきました。

 しかし、一つ解決すると次の難問が出現し、それを解決するとさらに新しい難問が、といった具合で際限無く続いて行きました。

 先生に祀ってもらった神様を礼拝し、教えてもらった修法を実践する日々がしばらく続きましたが、同時に平行して「気」とも取り組んでいました。

 ある程度波動を感じる事ができる段階で気と取り組んだ為、理解も早く、大抵の事は比較的簡単に実践する事ができました。

 気との取り組みは、主として太陽から気を受ける事を主体に実践していました。

 ある日、朝太陽からの気を受けた後、以前から行っていた素晴らしい気の満ちあふれた場所(具体的な場所名は支障があるので控えさせていただきます。)で瞑想していると、胸に柔らかく温かい気持ちの良い波動が次々と入ってくるのが感じられます。

 身体は「ユラユラ」と揺れ「フワフワ」と宙に浮いてしまうのではないかと思われるぐらい軽く心地好く感じます。

 そんなことがあって、家へ帰ってからいつもの様に先生に祀ってもらった神様の前に座ると、なんとその気持ちの悪い事。とても前に坐っている事ができません。

 今の今まで有り難いと思い、しかも気持ちのよい波動に満ちていたはずの神前が変わってしまったのです。

 一瞬自分を疑いました。
 
 しかし、現実に自分の皮膚は鳥肌が立ち、胸がつまった様に息苦しく、その場所にいたたまれません。

 結局、神前が変わったのではなく、自分の波動が変わったのだという事に気付きました。

 つまり、今まで有り難いと祀っていた先生の波動のレベルを越えてしまったということなのです。

 しかもその波動は神でも無く仏でも無い、太陽からの大自然の波動だったのです。

 その事に気付いた私は、その日の内に先生に百数十万円もかけて祀ってもらった神様を全て処分しました。そして以降多少の紆余曲折はありましたが、「気」一本に取り組む様になりました。

 こんな経過を経た後、様々な人々との出会いや体験を通じて、驚くべき事実が次々と分かって来ました。

これから述べることは、こうした体験を元に構成したものですが、世の中の常識を根底から覆すほどのインパクトを皆さんにあたえるものと確信します。

私個人としては、そのほとんどについてまぎれもない事実として、ほぼ確信に近いものを持ってはいますが、残念な事にそれを実証する有効な手段が無く、又、間違っている事もあるかもしれませんので、ここでは全てを仮説として提起することに致します。

従って、今後皆さん一人ひとりが自分の手で確認し、証明し、誤っている部分は修正しながら、さらに正しい方向に発展させていって頂きたいと心よりお願いするものであります。
 

平成 7年 5月 

 

気とは何か?

気のいろいろ

 一口に「気」と言ってもそれは様々であり、皆さんが一番身近に感じているのは中国の気功だと思います。

 気功にしろ、ヨガにしろ、座禅にしろ、共通した部分が多々有ります。

 これらに共通している一つの例として呼吸法があげられます。

 以前、あるテレビ番組で三者の呼吸法について調査比較して居ましたが、普通の呼吸に比べて、腹式呼吸によって横隔膜を大きく動かすことで、呼吸時の肺の容積をより大きくする事が特徴のようです。
 其の他にも共通した部分が多々あります。

 いずれにしても、やりかたや呼び方が多少違いますが、宇宙空間に偏満(広く行き渡って満ちる事)していると言われる「気」を呼吸法や動作、意念等によって有効に体に取り入れたり、放出したり、蓄えたり、循環させたりすることが基本となっているようです。

 それぞれの詳しい事については専門書を読むなり、専門家に聞くなりして頂くとして、話を先に進めたいと思います。

 方法は別として、ある程度気が分かるようになった人なら理屈抜きで分かると思いますが、気は波動として感じられます。(初歩の人は熱感や冷感で感じることもある)

 ところが、私達が生活している空間には様々な波動が満ち溢れているのです。

 例えば、電波、電磁波、赤外線、紫外線、磁気、放射線等々・・・・音や光も波動として感じる事ができます。(身近な例では家庭用のコンセントに手の平を近ずけてみてください。敏感な人なら数センチも近ずけたらその波動を感じる事ができるはずです。)

 さらには、霊的な存在も波動として感じられるのです。

 一言で霊と言ってもその波動は様々であり、ビリビリと刺す様な痛さを感じるものも有れば、熱い感じの物やゾクゾクと寒気を感じ鳥肌の立つものも有ります。

 又、ひかり輝き、一見柔らかく優しい神と見間違うような物まで有るのです。

 この様に、全て「気」として感じることが出来るのです。

 これらを全部気として無防備に体に取り込んでいたとしたら、これは少し考えものです。

 いずれにしても「気」にもいろいろ有ると言うことであり、その気と取り組む場合は「人間や動植物にとって良い作用をするもの」でなくてはならないのです。

 以降これを「プラスの気」、逆に人間や動植物にとって悪い作用をする気を「マイナスの気」と呼ぶことにします。(これは、絶対的なレベルでのプラス・マイナスでは無く、あくまでも仮の名称ですので注意してください。)

 

科学でみた気

 最近は中国の気功が有名になって、あちこちのテレビ番組で,より科学的に幅広く取り上げられる様になってきました。
 私が見たテレビ番組で記憶に残っているのは次の様な物です。

 気をいろいろな高感度センサーで検知したところ、光センサー・磁気センサー・温度センサー・赤外線センサー等で検出する事が出来たということです。

 その絶対量は一般の人と比べると何倍もの量ではありますが、実用されているエネルギーから見ると非常に微々たるものであるという事でした。

 又、脳波測定の実験では、気功師の脳波は気を発している状態で測定すると、非常に特異な波形が表れるという事。さらに、気功師が相手に気を送ったとき、相手の脳波がそれに同調した様に変化するといったような事でした。

 その他にも、コイルを使って気を電流として検出したとか、光電子増倍管を使って気を光として検出したとか、いろいろな試みが行われている様です。

 しかし、まだまだ分からない事が多く、科学的に完全な解明がなされるには相当な時間がかると思います。

 現在のところ、ただ気の存在を科学的に検出する事が出来るかどうか、といった段階であり、私としてはその気が「プラスの気]か「マイナスの気」か判別出来るところ迄進んでいないのが残念です。

 一口に気といっても気功師によって個人差が有りますし、その気が果たして全部純粋な「プラスの気]であるかどうか、といった観点からも研究していただく必要があるという事を提言しておきたいと思います。

 世の中には「気」と称して、他人に自分自身のマイナスの気(自身の因縁や意識エネルギー)を送り付けているケースが案外多いのです(特に金儲けとして取り組んでいる人に多い)。

 ただ、その「気」を気持ち良く感じるかどうかは、相対的なレベルの差によって起こる為、送ってくれる相手の気が多少マイナスであっても、自分がそれよりさらにマイナスであれば、その差の分だけ相手はプラスということになり、心地良く感じるものなのです。

 つまり、今の自分にとって心地好いからプラスの気だ、と いうことではないのです。(とりあえずは自分にとって心地良いものを求め続けていけば良いのですが、ある段階でそれを絶対的なものとしてとらえ執着してし まうと、それ以上のレベルアップが望めないばかりか、逆行したり、とんでもない迷路に際限無く迷いこんでしまうことすらありますので注意が必要です。)

 それだけによけい科学的な測定器で、絶対的なレベルでの、プラス・マイナスの判断が出来る様になる事が望まれるのです。

 

 

プラスの気の基準は自身の内に有る

 それでは「プラスの気」とはどうして選別すれば良いのでしょうか。

 科学的な測定器も無いし、そんな事が出来るはずが無いと思われるでしょうが、実は誰もがその測定原器を自分の肉体に持ち合わせているのです。

 では、いったいそれはどこなのでしょうか?

 気功の解説書や針灸のツボの解説書等を見て戴ければ、胸に「だん中」というツボが有るのが分かると思います。

 つまり、乳首と乳首を結んだ線のちょうど胸の中央にあたる所が見当です。正しい位置はそんなにこだわらなくても結構です。

 要するに、その辺りだということを自覚すればそれで良いのです。

 そのポイントの少し奥まった所に誰もが素晴らしい純粋なエネルギーの固まりを持っているのです。

 それは神と言っても過言では有りません。

 何故そこかというと、体験的にそうとしか考えられない事実がいくつかあるからですが、その事は後で追い追い説明していきたいと思います。

 ただ、その素晴らしいエネルギーにほとんどの人が気付いていない為に、周囲を様々なマイナスのエネルギーに取り巻かれ、覆い隠されてしまっているのです。

 その結果、自身が持つ素晴らしいエネルギーの恩恵にあずかる事が出来ず、自分を見失い、全財産をはたいてまでも他に救いを求めてしまう様な結果を招いてしまうのです。

 つまり、極論すれば神は自分の内に有るのです。

 話を元に戻すと、プラスの気の基準は自分の胸の内に有るのであり、それをしっかりと自覚し、その胸からあたりに偏満している同じプラスの気をどんどん取り入れるのです。

 そうすれば、自分の胸のプラスの気がフィルターの働きをして、マイナスの気を除外して取り入れる事が出来るのです。

 そして、自身のプラスの気をどんどん高め、大きくしていく事こそ生きる目的なのです。

 具体的な方法は後に詳しく述べますのでここでは省略します。

 ただ、ここで大切な事は、自分の内なるプラスの気を心より信頼する事です。
 

意識はエネルギーであり気の一種である

 大抵の人が人間の思い(意識)はその場限りで消えてしまう物だと思っているでしょう。

 しかし、気が分かる様になるととんでもない事が見えてくるのです。

 人間の意識はエネルギーであり、その強さや密度によってある一定の期間この世に有り続けるのです。

 この事は仮説としても非常に大胆な物であり、この「気で見るあの世とこの世」を構成する上で最も重要な部分であると言えます。

 さて、人間の意識は次に示すような特徴を持っていると考えられます。 

 もちろんこれらの事を書くについては、私なりの根拠と裏づけが有りますが、残念ながらそれを科学的に証明する事は今の時点では出来ません。

 個々の詳しい説明は後に述べる事とし、ここでは箇条書にしてみました。
 

・意識エネルギーは、その強さ及び密度に応じて一定期間この世に残存する。

・意識エネルギーは、原則的にそれを発動した物を取り巻く。

・意識エネルギーは4.5次元的(半物質?)エネルギーで有る。(注)

・意識エネルギーは、その意図をこの世で実現させる方向に働き続ける

・意識エネルギーは、無限に近い多様な波動を持っている。

・この世は様々なレベルの意識エネルギーが渦巻く多重世界である。

・意識エネルギーは、純粋な「プラスの気」から見れば基本的にマイナスで有る。

・意識エネルギーは、螺旋状(左巻き?)のエネルギーで有る。

・意識エネルギーは、水と融合しやすい。(特に海水)

 意識エネルギーは、人間の肉体を含めたこの世の空間に多重的に無数に存在 しており、この世はそれらが複合的にからみあいながらうごめいている多重世界なのです。
 
注記)
この世がどの次元であるかという事については、私は当初この世は3次元であると考えていました。
従って、当初は意識エネルギーは3.5次元と言う表記をしていました。
しかし、ある時科学者の方から、科学的にはこの世は4次元であるというご指摘をいただきました。
その為、それ以降この世は4次元であるという立場を取っていますので、意識エネルギーを4.5次元と表記させていただきました。
私はそうしたことについては無学ですので、よく解らないと言うのが正直なところです。
以降、異論のある方は適宜自分の思うところの次元として読み替えて解釈して下さいます様お願い申し上げます。


霊と魂と意識エネルギー
 

魂はどこにあるか

 前に、人間は胸に純粋なプラスの気を持っていると書きましたが、どうもそれが魂の様なのです。

 では何故胸に有るのが分かるかと言えば、一般的な霊的存在(個体)を気として見たとき、下図のような「ひとがた」をしています。

 そして、そのちょうど胸の辺りに非常に良い波動の球形をしたエネルギーが有るのです。
 

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  さらに、その球をそっと両手で包んで別の場所へ移すと、その球形のエネルギーはちょうど炭酸ガス入りの入浴材を湯の中へ入れた時に、シュワシュワーと周囲に泡が出てみるみる小さくなっていく様に空中に拡散して小さくなっていくのです。

 そして最後には私では感知できなくなってしまうのです。

 また、ひとがたを形成していた残りの部分はどうなるかと言えば、地をはうように池や川、あるいは海の方へドローンとした感じで流れていってしまうのです。

  これらの事を霊が見える聞こえるという人に一緒に見て貰うと、確かに霊だと言い、「ありがとう」と言ってどこかへ消えていったというような事を言うのです。

  霊能については後に述べる様に、決して良い能力とは言えませんが、この世に思いを残してさ迷っている霊的存在と完璧に導通している人達で有り、そうした世界は事実有るのだと言うことは間違いないと思います。

  ただ、そうした世界と完璧に導通するということは、生きていながら死後の世界に居るのと同じことなのです。

 いずれにしても、気で波動として違う次元から見た事と、霊的能力者が同じ次元でその世界を見た事が計らずも一致するという事は間違い有りません。

 さらに、他人に対して気を送る場合、全体に送り続けると、まずその人の最も突出した異常な波動が消え、次に全体として波動が修正されていくうちに誰でも最初は胸に気が集中して入っていくのです。

 もちろんこの場合特別胸を意識して送っていないにも拘らずです。

 これは、こちらから送っているプラスの気と、相手の人の胸の気が同じだから真っ先に導通するのだと思います。

 これらの事実から、多分胸にプラスの気が有るのだろう。

 そしてひょっとしたらそれは魂なのではないかと推測できるのです。

 ある時テレビ番組を見ていたら、京都の宇治に有る万福寺という中国から渡ってきた隠元禅師(いんげん豆を伝えた人?)が開祖である黄檗宗のお寺を写していました。

 なにげなく見ていましたが、驚いた事にその寺内に幾体かの羅漢像が安置してあり、その中の一体が自身の胸の肉を両手で掻き開き、その中からお釈迦様が顔を出しているのです。

 その時のアナウンサーの問いかけに対して、案内の僧は「人間の中にも仏性が存在しているという事でしょう」と説明していましたが、この事はまさしく胸に神仏に等しいありがたいプラスの気が存在している事を示しているものだと思われます。
 

魂とはどんなものか

 では、その魂とは一体何なんでしょうか?

 このあたりは完全な推測でしか有りませんが、まず魂は5次元的エネルギーではないかということです。

 つまり4次元のこの世にはとどまっておれない、従って霊 体から両手で包んで別の場所へ移したときシュワーと消えてしまう。(あくまでもこの世を4次元とした場合の話です。一説によるとこの世は3.5次元とも言 われ、このあたりは専門家では無いので間違っているかも知れません。)

 つまり消滅するのでは無く、5次元の世界(魂の世界)へ行ってしまうという事だと思うのです。

 では、何故霊体のときはこの世にとどまっておれるのかという疑問がわいてきます。

 それは、霊体は魂を核に、それを押し包んだ意識エネルギーが一体となっている為、4.5次元的エネルギーの意識エネルギーが媒体として4次元のこの世に、5次元的エネルギーの魂を繋ぎ止めているのではないかと考えられるのです。

 次に、魂は「意識波動生命体」としか言いようの無い、肉体の無い意識を持った波動生命体ではないかという事です。
 それは、もし霊体が意識エネルギーという肉体の出した残存エネルギーだけだとしたら、肉体が滅びた後新たな意識の発動は無いものと思われます。

 ところが霊能者に言わせると、新たな問いかけに対して、過去の記憶では無い新たな返答が帰ってくると言うのです。
 これは、そこに新たな意識を発動する生命体が居るとしか考えられないのです。

 もちろん、霊体は完全に純粋な魂の波動ではなく、それを押し包んでいる意識エネルギーによって波動が歪んでおり、相当その影響を受けているのは事実です。
 
 しかし、過去に肉体が出し続けた意識エネルギーだけでは新たな意識の発動は考えられないのです。

 なぜなら、何度も言うように、意識エネルギーは肉体が過去に出し続けた残存エネルギーだという前提だからです。

 やはり、魂は新たな意識を発動する波動生命体だとしか思 えないのです。(但し、ここでお断りしておきますが、人間の肉が出し続けた4.5次元的な意識エネルギーと、魂の5次元的な意識とは同じレベルの意識では なく異質のものですが、この世的な肉の意識エネルギーの波動によって、魂のクリーンな意識の波動が歪んでしまい、この世的な意識波動に近づいてしまってい るという事です。 本来の純粋な魂の意識=肉としての無意識=宇宙意識?)

 そして、その意識波動生命体はひょっとして宇宙からやって来た物かも知れません。

 なぜなら、5次元的な生命体だとすると、時間と空間を超越した存在だからです。

 ある書物に「魂は宇宙からやって来て人間の肉体に入り込 んだ、しかし長きにわたって在り続けた為、その事実が記憶の奥底に埋もれてしまうと同時に、肉に対する執着心がさらに魂を曇らせ、今では全く忘れ去り、こ の地球にあたかも最初から人間として存在していたかのような錯覚に陥っている。」こんな事を書いている人が居ましたが、あながち絵空事では無いような気も してきます。

霊と魂と意識エネルギーの関係

 では人間がこの世で肉を持って生きている状態から、肉体が滅び霊体となり、さらに魂となっていく過程を考えてみましょう。

 人間はこの世において生きている時、様々な思いを抱き続けます。

 時には特定の事に強い執着を持つ人も居ます。又、強い悲しみや苦しみを抱き続ける人も居ます。これらの様々な強い思い、すなわち強い意識エネルギーはその強さに応じて蓄積し、その発生原である肉体を取り巻きます。

 そんな人が死を迎えたとします。

 魂は肉体から抜けでますが、その時一緒に肉体を押し包んでいた意識エネルギーも肉体から離れ、今度は魂を押し包みます。

 本来なら、肉体を離れた魂は即刻この世を離れ、5次元の 魂の世界(どこかは分からないが、同じ周波数を持った恩叉が共鳴する様に、魂が同じ波動の世界に自動的に組み込まれていくのではないか。 これと同じこと が、この世をさ迷っている霊の世界でもおこっている。)に旅立つはずですが、肉体を持っていた当時の意識エネルギーがそれを押し包み、この世に引き止めて しまいます。

 そのとき、意識エネルギーはその意図を実現する方向に働き続けますから、魂はそのエネルギーによって死んでからも生前の意識のままにさ迷ってしまうのです。

 つまり、魂は生前の意識エネルギーの波動により歪んでしまい生前の思いのまま、その意識エネルギーの強さに応じて一定の期間この世に留まってしまうのです。

 では一定期間とはどのくらいなのかというと、それは様々であり肉体が滅びた後は自力では浄化は不可能であり、他力により供養という形で浄化して貰うか、あるいは自然界のプラスの気によって浄化していくしか有りません。

 自然界に存在するプラスの気は、意識エネルギーの密度から比べたら非常に希薄で、それだけで浄化するには大変時間がかかります。

 一例として、400年も前の武士の怨霊と霊能者を通じて出会った事も有ります。(後の世の人達が、供養という形を取っているにも関わらず迷っているという事は、その供養が正しくないという事になります。)

 又、前者の他力で供養して貰う場合でも、供養する側がプラスの気について無知で、正しい供養の仕方(といってもプラスの気を霊体に与えるだけですが)が分からない、あるいは間違っている場合は全く効果が無い事が有ります。
 

霊はどこに居るか

 では、この様にしてこの世に留まった霊は一体どこへ行くのか?

 一般的には、生前の思いの中でも最も強い物に引きずられてしまうのではないかと思われます。

 例えば、生前孫を大変可愛いがっていた人が居たとします。

その人は死にあたって孫に強い愛着の念を残したとします。

 この場合、その人の霊体は必ず孫に取り付きます。
 そして、いずれは孫の体の奥深くに入り込み、孫と一体となって有り続けるのです。

 そして、その孫はと言えば、その霊体の意識エネルギーが強い場合は、その影響を色濃く受けて育っていく事になります。

 また時には、しぐさや物言い迄似てしまうことが有るのです。

 私はある家の方が亡くなったとき、そんな現実を目の当たりにしたことが有ります。

 祭壇の前に立っている亡くなった人の霊体が、同じ部屋の片隅に昼寝をしている孫の耳の辺りにまとわりついているのです。
 
 思わず家人に「無くなった人は、お孫さんを大事にしていましたか?」と尋ねました。
 案の定、家人の答えは「何よりも一番大切にしていた。」との事でした。

 この様に亡くなった人を正しく供養するという事は、その人の為だけでは無く、残された人達の為でも有るのです。

 今この世にはたくさんの霊体がさ迷っています。
 さ迷っているといっても、その辺をうろうろしているのではなく、そのほとんどが人間の肉体の中に寄生虫の様に無数に巣くっているのです。

 もちろん、墓や寺、古戦場や自殺の名所など、他にもいろいろな所にさ迷っていますがなんと言っても密度の濃いのは人間の肉体なのです。
 
 このことから、地獄は人間の肉体の中に異次元の世界として存在しているのでは?と思わせるほどです。 

 人によって個人差は有りますが、この世に生きている人間全てがそうなのです。

 これらの事から、親から受け継いだ先祖系の、あるいは縁があって自分にかかわった縁辺系の様々な意識エネルギーは、色濃く自分の肉体を浸し、その波動が自身の潜在意識に強い影響を与えていたり、あるいは完全に支配している場合すらあるのです。

 つまり先祖は自分自身なのです。(私達の肉体には魂という神にも相当するものと同時に、先祖的エネルギーも多重的に共存している。)

 その霊的エネルギーはどこに在るかと言えば、主として仙骨に密度高く染付いているものと思われます。
 
 その量たるや、ごく普通の人でも恐ろしいほどの量です。

 これは、今まで自分自身を含めた数多くの人達の仙骨、あるいはその周辺から出てくる数々の霊的存在の多様な形態を体験した事からはっきりと言える事です。
 
 それらの様々な形態の一部と、それらがプラスの気を受け続けた場合の変化の様子を霊団の様々な形態の一例及び霊団の形態変化の一例として次に示してみました。
 

霊団の様々な形態の一例
 

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 (但し、プラスの気を受けて肉体やその他に憑いていたものから離れ、空間に自立した形を示す。これらはほんの一部を示すものであり、他にも無限に近い多様な形態が有ります。)
 

霊団の形態変化の一例
 

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     (空間に自立したものに対しプラスの気をあたえ続けた場合)
 
 
 

霊の憑依と霊能

 ここまでの事を踏まえて、世の中でちやほやされる霊能について書いておきたいと思います。

 霊能と霊の憑依現象とは切っても切れない関係にあります。

 霊能者は一般的に霊的な波動の世界と導通しやすい、あるいは完全に導通してしまう人が多いと思われます。すなわち、意識エネルギーに感応し、導通しやすい人達なのです。

 何故か、男性には非常に少なく女性に多く見られます。

 この事から、他人の心を読み取ったり、行動を予知したり、他人の過去を霊視したり、遠隔地の状況を霊視したりする能力についてはほぼ説明がつきます。

 つまり、他人の心を読む場合、人間が心に思うという事は意識エネルギーを発動する事であり、その意識を読み取るという事なのです。

 また、人間が行動する場合も、まず意識として発動し、その命令が神経系を通じて肉体に伝達するのであり、この場合もその行動前の意識を読む事になります。

 さらに、人間の過去は記憶として残っていますが、その記憶はやはり意識エネルギーとして先祖系のものも含めて残存している為、それを読み取ります。

 強い記憶ほど長く残ります。(一般的な記憶だけでは無く、先祖の残存意識エネルギーも一種の記憶なのです。)

 遠隔地の状況を霊視する事についてはすこしパターンが違いますが、基本的には同じことで、霊視する人が自分の内に持っている霊的存在と完全に導通しており、その霊的存在の一部が一時的に肉体を離れて遠隔地まで到達し、その状況を伝達すると思われます。

 意識エネルギーに完璧に導通出来る人にはそれがわかるのです。

 映像として見えたり音として聞えたりと言うよりは、分かるとしか言い様がないということの様です。(テレパシーも同じ理屈で、意識エネルギーのやりとりということで説明がつきます。)

 こんな人の場合、その霊的存在をその肉体から完全に引き 離そうとしたとき(先に述べた例で、遠隔地を見に行く為一時的に肉体を離れるのは、その人の意識と結合している状態なので、ここでいう完全に引き離された 状態では無い。)、まるで自分自身の肉体が引き裂かれ、死んでしまうかのような苦痛に襲われます。

 自分の内に持っている霊的存在と完全に一心同体となって しまっているからなのです。(何故かはわかりませんが、肉体の中の霊体はその肉体から完全に引き離される事を極端に嫌がり抵抗します。憑依した霊自身が其 の人の口を借りてそう訴えるのです。では、そこはそんなに良い所かと聞くと、大抵暗くてじめじめしていて、あまり良い所では無いと言います。それにもかか わらず出たくないと言うのです。このあたりはよくわかりません。)

 この事は、この世に肉体を持って生きていながらあの世に居るのと同じであり、とても恐ろしい事です。しかし、世間はそんな事を特殊なすばらしい能力としてちやほやしてしまっています。

 ところが逆に、こんな人こそ自身の魂と正しいプラスの気を意識し取り組まなければならず、こんな人程苦しみも人一倍多いけれど、その分一般の人より上達が早いのです。

 何故なら、霊能もプラスの気との取り組みも、自分の意識を利用するという事では全く同じであり、ただその使いみちが違うだけだからです。

 私の所へ訪ねてくるごく普通の人達の中にも、突然霊に憑依される人がいます。やはり女性が圧倒的です。

 そうした人達は、仙骨に強いプラスの気を受け続けると、仙骨に染付いている霊的エネルギーが解きほぐされ、背骨を通ってユラユラと浮き上がってきます。

 そして、そのエネルギーが頭部に達したとき憑依が始まるのです。

 もちろん、逆に外部から耳を通じて頭部に侵入される場合もあります。

 いずれにしても、頭部の両耳の間付近(右側頭葉?)に霊的なエネルギー(意識エネルギー)に感応する部分が在るようです。

 憑依された場合色々なパターンがあります。

 例えば、自分の意識はある程度はっきりしていて別の人格が自分の口を通してしゃべっている、あるいは苦しみもだえているのを自覚している場合。

 この場合は、憑依された状態からぬけだそうと思えば自分の意思で抜け出せるし、後で憑依されていたときの事を思い出せるのが特徴です。

 また完全に憑依したものに支配され、気を失ったような状態になる人もあります。

 この場合は、当然憑依されていた時の事は全く覚えていませんし、完全に支配されてしまうので、突然無防備な状態で倒れたりするので注意が必要です。

 こうした事は特異体質としてかたずけてしまえるものではありません。

 誰もが、この様になる可能性を秘めているのです。

 但し、プラスの気をひたすら取り込み、体の内外にプラスの気が満ち溢れてくると、決して霊的なものに憑依される事はありません。

 その証拠に、霊が見える、霊と話ができるという人が正しい方法でプラスの気と取り組んでいく内に、今まで見える聞えるだったのがだんだん分からなくなっていき、最後には波動としてしか感じなくなったという事実があるのです。

 前にも述べた様に、霊能は生きていながら死んでこの世をさ迷っている存在と完全に導通しているという事であり、そうしたことに興味を持ち続け、霊的な存在と関わってばかりいると、ますますその奥深い世界にのめりこんでしまう事態となってしまうのです。

 ましてやそうした事を生活の糧にしている人などはなおさらです。

つまり、霊的な存在は魂+意識エネルギーであり、さらにその意識エネルギーは、悲しみ、苦しみ、恨み、つらみ、執着心等々の生前の強い思いであり、それ相当の、例えば、荒く、暗く、冷たく、重い波動を持っているのです。

 そうしたものに積極的に意識を向け導通するという事は、同じ周波数を持った音叉が離れていても共鳴する様に、あるいはラジオのチューナーで、特定の周波数に合わせるとその放送が聞けるのと同じ様に、自身の波動がそうしたものと同調するということなのです。

 同調するという事は、意識エネルギーは4.5次元のエネ ルギーですから、ある程度時間と空間を越えて同じ様な波動エネルギーを集めてしまうということであり、自分自身の周囲をそうしたエネルギーが色濃く押し包 み、そのうち体の中まで侵され、最後には仙骨に染付き、自分の潜在意識を支配されてしまいますますのめりこんでいくという悪循環に陥っていくのです。

 そして、自分自身が生きている間にそれらを浄化できなかった場合、肉体が滅びた後も生前の意識のままにこの世をさ迷い、あるいは子孫に取り付き、その肉体に入り込み悪しき霊的存在として在り続けてしまう結果となるのです。
 

幽体離脱と霊能

 先程霊能者の体内の霊的存在の一部が一時的にその肉体を離れて遠隔地迄到達し、其の状況を伝達すると書きましたが、このことはよく言われる幽体離脱と深い関係があります。

 一般的に言われる幽体とは、その人に関わる先祖系の、あ るいは縁があって関わった縁辺系の霊的存在であり、其の人の肉体の内外に留まっているものだと考えられます。(こうした幽体や、自分自身の意識エネルギー が混ぜん一体となって、身体の外に波動として溢れているのが、いわゆるオーラといわれるものなのです。オーラには色があるといわれ、どの色は尊くどの色は 卑しいとか言いますが、結局の所この世をさ迷っている霊的存在の波動エネルギーに過ぎないのであり、それをとらえて尊いも何もあったものではありません。 その色は、光の波長が短いものから長いものに変化するにつれて紫から赤へと変化ししていくのと同じで、霊的存在の波動の質によって違った色に見えたとして も当然の事なのです。従って、自分のオーラの色を競う等ということは自分の汚れ具合を競っているのと同じことなのです。)

 先にも述べた様に普通誰もがこうした存在を色濃く持っているのですが、一般の人と違って霊能者の場合はその霊的存在と完全に導通しており、一身同体となってしまっているのが特徴です。

 つまり自分の一部となってしまっているのです。

 だからこそ、その一部を駆使して色々な霊的世界の情報を手にする事が出来るのです。

 そして、この事を世間の一部は霊能と称したたえるのです。

  霊能を糧にして生計を立てている人の場合は、この世界に関われば関わるほど奥深い霊的世界に引き込まれ、ますますその能力は砥ぎすまされますが、その事は霊能者が死後もそうした世界に止まってしまう結果を生んでしまうのです。

 自身の未来を食い潰して生計を立てている様なものです。

 幽体離脱の実際を証明する事実として一例をあげておきます。

 ある時、私の所に出入りしていた霊能者の方から電話があり、「今からそちらへお邪魔します」というのです。最初の内はよく理解できませんでしたが結局それは幽体離脱してこちらえ来るという意味だったのです。

 その後確かに霊体がこちらに来て、電話の向こうでは私の居る場所の事を事細かに言い当てるのです。

 まるで本人が私の居る場所に一緒に居るかのようでした。

 又、ある時は友人と一緒に居た時、同じひとが「今から幽体離脱をします。」と言うので、後学の為にやってみようという事になり、その場で幽体離脱を始めました。霊能者は気を失った様にグッタリした状態になり、確かに霊体が身体の外に出ています。

 この時、ふっと思い付いた事は、「もしこの霊体を供養して、この世から消えてもらったらどうなるのか?」という事でした。

 友人と相談したら、「この霊体は本人のものだとしたら、この世から消えると言うことは死を意味するのではないか?」とその友人は言います。

 私としてはそんな事は無いとは思っていましたが、万が一 ということもあり、躊躇していましたが結局やってみようという事になり、目の前に居る霊体の核になる部分(魂と思われる)を両手でそっと包み込み、気を送 りながら霊体から引き離すと、いつもの様に空中にシュワシュワーと消えて行きました。

 そして、残されたものはドローンと川の方角へ流れて行き、目の前にいた霊体は消滅しました。

 さて、その後気を失っている霊能者の肩を揺り動かして名前を呼ぶと、「あれ、私は何をしていたの」と言って起き上がりました。

 多くを語らなくとも、これらの事から、幽体離脱の何たるかはおおよそ説明できたと思います。

 但し、肉体の細胞の一つ一つに至るまで完全にプラスの気(5次元的エネルギー)で浸されたときには、肉体に止まっておれなくなり、この世から自動的に消滅してしまう、ということは理論的には有り得ます(仏教で言う即身成仏に相当する)。

 しかし実際は人間が生きているという事は、肉の意識エネルギーを出し続けているということであり、その意識エネルギーがある限り、その4.5次元的パワーで魂をこの世にひき留めてしまう為、そんな事は有り得ないと考えています。

 従って即身成仏も有り得ないのではないかと考えられますが、さていかがなものでしょう?。
 

除霊について

 除霊とか浄霊と称して高額のお礼を支払い、仰々しく儀式めいたことを行っている場面をテレビなどでよく見掛けますが、当人がそれで良いと思ってしていることですから周りがとやかく言うことはありませんが、見ているととにかく滑稽としか言い様がありません。

 前にも述べたように、人間の肉体の中には無数の霊的存在が巣食っており、それらの霊的存在は先祖を含めた其の人の生きざまによって蓄積した波動と意識で磁石の様に引き付けられているのです。

 もし本当に除霊出来る能力者が居たと仮定して完璧に除霊出来たとしても、其の人の意識の有り様が変わらなければすぐさま元に戻ってしまう事になるのです。

 つまり、其の人の意識や生きざまが変わらないという事は、相変わらず同じ波動を持った霊的存在と導通し、寄せ集め、再び色濃く浸されていく結果となるのです。

 他力によって自身の浄化を図るという事は、自分の責任を棚に上げて、自分は何の努力もせず、他力にすがって結果だけを追い求める卑劣な行為であると同時に、そうした除霊や浄霊をなりわいとする事自体も本来の正しい在り方からかけ離れたものであると言うことが出来ます。

 結局、自分のことは自分自身の努力で解決する以外方法は無いのであり、そしてそれは決して難しい事ではないのです。

 それにはまず自身の意識を変える必要があります。

 まず自分自身の魂のプラスの気を信じ、常に内外のプラスの気に意識を向け、感謝の心を持って自分の肉体をプラスの気で満たしていくだけで良いのです。

 何度も述べる様に、生きている人間の意識はエネルギーであり、そのパワーは他のどんな霊的存在より強力なものなのです。(この意味では霊など恐れることはないのです。)

 その強力なパワーでプラスの気をひたすら取り込めば、それこそが自身の浄化であり、ひいては家族や周囲の浄化に自ずからつながっていくのです。

 要するに霊だ何だと難しく考えずに、単なるマイナスのエネルギーだと考え、それをプラスの気で打ち消していくのだと考えたほうが無難なようです。

 少し余談になりますが、緊急避難的に霊的なものに憑依された状態から開放するために有効な方法(結果的には除霊と同じであるが、あくまでも緊急避難的なものと考えてください。)が在るので紹介しておきます。

 基本的には憑依されている人に対してプラスの気を送るだけなのですが、その送る場所がポイントです。

 前に述べたように、どうも霊的なものに憑依された場合、支配されている脳の場所は耳の近辺に在るようです。従って、相手の両耳を両手で挟む形で気を送り続けると意外と簡単に離れます。(目安として約 5〜10分)

 但し、相当熟練していないと相手に自分のマイナスの気を 送ってしまったり、逆に自分が受けたり、あるいは強いものは一時的に離れてもすぐ戻る場合が在りますので、必ず気の善し悪しを判別できる熟練者立ち会いの もとで、しかも気のレベルの高い良い場所で行うようにしてください。

 信じられないと思いますが、弱いものでは黒砂糖や酒、水を置き、「どうぞお召し上がりください」と相手に口に出して伝えるだけで離れるものも在ります。(ここで、低レベルの霊程口に出して波動として相手に伝える事が大切であるという事を覚えておいて下さい。)

 肉体から離れた霊的存在の処置は、原則としてはケースバ イケースですが、一般的には黒砂糖や酒、水等を供えて供養した後、きれいな川や海へ導いてあげるとたいていは案外素直に行ってくれますが、中には想像を絶 するとんでもない強いものもありますので、詳しい事は別の機会にゆずりたいと思います。
 

生き霊とは何か?

 よく生き霊を見たとか、生き霊は恐ろしいとかといった話を聞く事が在りますが、生き霊とは本当に居るのでしょうか。

 実は居るのです。

 何を隠そう、生き霊とは生きている人間の思い、つまり意識エネルギー以外の何者でもないのです。

 生きている人間の意識は、その人が生きている限り途絶える事はありませんから、継続して発生し続けます。又、生きている生身の人間が出し続ける訳ですから、非常に強力です。

 しかも、意識エネルギーは4.5次元的エネルギーですから、ある程度時間と空間を越えてその意図を実現する方向に働き続けます。

 例えば、ここにある人を憎んでいる人が居たとします。

 すると、その憎しみの念はある程度、時間と空間を超えて相手に継続して届きます。

 もちろんそれと同時に自分自身をも取り巻きます。

 そして、その相手が意識エネルギーに敏感な体質の人(霊感の強い人)の場合は、その意識エネルギーに感応して体調が悪化したり、良くない事が起こったりします。

 つまり、相手の送った憎しみの意識エネルギーの波動によって自分の波動を狂わされてしまうのです。

 これが生き霊です。

 この生き霊から逃れるのは非常に困難です。

 何故なら、先程述べた様に相手は生きていて継続して送り続けて来ますから、いくら取り払ってもきりがないからです。相手が死なない限りこれから逃れる事は出来ません。

 だから生き霊は恐いのです。

 但し、昔の諺に「人を呪わば穴ふたつ」というのがあるように、憎しみの念を出し続けた当人も相手に送ったのと同じ波動で押し包まれ、その影響下にまみれてしまうのは言うまでもありません。

 又、誰にでも影響が在るのかというと、そうではありません。

 身勝手で自意識過剰気味の人にはあまり影響はありません。

 何故なら、自身の強力な自意識がバリアーとして働き、他からの意識エネルギーが届かないのです。

 だからこそ身勝手なのです。(この様にマイナスのエネルギーは、バリアーの様に他をはねつける事が出来ます。これに対しプラスのエネルギーはそんな事は出来ません。全てを一旦受け入れ、其の後浄化していくのです。)

 さらに、プラスの気で満たされた人にもあまり影響はありません。何故なら、相手からの憎しみのマイナスエネルギーをその人のプラスの気が打ち消して浄化してしまうからです。

 それに、プラスの気に満たされた人の場合は他人から恨みをかうような事はあまりありません。

 この様に生き霊はこの世に確かに存在し、いつあなた自身がその発生原になったり、被害者になったりするかも知れません。しかし、プラスの気さえ充実していればそんな心配は無用なのです。
 

人間の生きる目的と意識の在り方

 肉をもって生きているからこそ、その意識エネルギーを利用して良いエネルギーとも導通出来ますが、肉が滅びてしまえば新たな肉としての意識は発動できませんから、もう自力では浄化できない、他力によって供養という形をとってもらうしかなくなるのです。

  そうなってしまうと、今の時代は正しい供養(単にプラスの気を供給してあげるだけの事なのですが。)が出来る人は皆無に近いため、自身の肉が出し続けた意識エネルギーによって束縛されたあなたの魂は、長い間にわたってさまよい続けなければならなくなってしまうのです。

 この世は様々な意識エネルギーが多重的に混在していますから、その中のどのレベルのエネルギーと導通するかは、自分自身の意識次第で変わるということなのです。

 逆に言えば、常に自身の内に在る素晴らしい魂のプラスエ ネルギーを意識しているだけで、周囲に偏満している(といっても、肉体の出す意識エネルギーからみれば非常に希薄で弱いものです。念力とも言う様に、意識 の力は非常に強いのです。)プラスの気と導通できると共に、その恩恵にあずかる事が出来るのです。

 すなわち、人間の肉が発動する意識エネルギーは諸刃の剣であり、良いエネルギーと導通するか、悪いエネルギーと導通するかは自分の心のあり方一つだということです。

 この様に、意識エネルギーは4.5 次元の半物質エネルギーである為、同次元のエネルギーはもちろん、媒体として物質エネルギーとも5次元のプラスエネルギーとも導通出来るのが特徴です。

 意識エネルギーをこの世的な欲望として、継続して蓄積し続けると、段々物質的エネルギーに近づき、同じ様な波動を寄せ集めると共に、その欲望がこの世で実現する方向に働き続けます。

 つまり、念力の世界です。

 こんな場合、たとえこの世でその欲望が実現しても、いずれ死を迎えた時、巨大な欲望の波動に満ちた霊的存在としてこの世をさ迷い続けてしまう事になってしまうのです。

 また、意識エネルギーを自身の魂に向け、さらに太陽から 出ている、あるいは宇宙に満ちているプラスの気に向けていくと、自身の肉体はプラスの気に満たされ、磁石と同じ様にプラスの気が密度高く肉体を循環し、自 分の周囲を取り巻いている、あるいは仙骨等に染付いている先祖系意識や自意識エネルギーをときほぐし、氷解させていき、さらに柔らかく、細かく、温かく、 明るいすばらしい波動へと昇華していくのです。

 そして、自分のみならず家族や周囲の人達までその波動で包み浄化していく事が出来るのです。

 そんな人が亡くなったとしたら、誰の供養を受けずとも、即座に魂の世界に吸い込まれるように旅立つ事ができるでしょう。

 この事こそ、人間がこの世に肉体を持って産み落とされ、生かされていく本当の目的なのです。

 この様に考えていくと、仕事や、地位や、名誉や、財産や、その他の物欲や肉欲に囚われ、執着する事のおろかさが自ずから見えてくると思います。

 お金で自分の来世を買おうとする行為も同様です。(財産をすべてお布施する行為も、一見清い行為に見えますが、結局は財産という品物で自分の来世を買おうとしているという意味で、全く同じ行為なのです。)

但し、お断りしておきますが、お金がたくさん有って裕福な事や、仕事に打ち込んで楽しい事、あるいは他人から尊敬されふさわしい地位にある事等を否定するものでは決してありません。

 要するに必要以上に執着してはいけないが、自然体で、あるがままに精一杯生きて来た結果得られたものなら、そんな素晴らしい事はないのです。

 また、プラスの気が充実してくると、そんなに強く意識しなくとも、案外「ふっと軽く思った事」が実現するものなのです。
 

気で見るあの世とこの世
 

出生と因縁

 私達がこの世に生まれてくる場合、当然父が居て母が居る訳ですが、父にはその父と母が居て、母にも同じ様にその父と母がいます。

 同様にしてさかのぼって行くと人類の誕生までさかのぼる事が出来るはずです。

 つまり、私達はこの様に気が遠くなる程の先祖が居て、初めてこの世に産み落とされたのです。

 それらの先祖の内どの一人が欠けても、今の自分はこの世に有り得ないのです。

 自分というものに深く関わるこれらの無数の先祖は、全て完全に浄化し魂の世界に旅立っているのかということになると、これはすこし疑問です。

 何故なら、前にも述べた様に、400年も前の武士の霊が人間の身体の中から出て来た、という事実が有るのです。

 しかも、其の武士は後の世の人々により、丁寧に供養されているにもかかわらずなのです。

 この事から、自分に関わる無数の先祖の内に、浄化されずにこの世に思いをとどめてさ迷っている方々が相当数居たとしても不思議ではありません。

 事実、ほとんど全ての人間の肉体の中に無数の霊的存在が巣食っているという事は、これも前に述べた通りです。

 こんな事を言うと、私自身もかってそうでしたが、「私はこの世に生まれ落ちてこのかた、悪い事は何もしていないし、清く正しく生きて来たのに、そんな不浄な霊的存在に侵されているはずが無い。」と憤慨する人が居ると思います。

 確かに、其の人の生きざまと意識の有り様によって、その 波動は変わるわけですが、この世に生まれ落ちてからのそうした生きざまや意識の有り様に関係なく、この世に生まれ落ちた時宿命的に、父や母あるいは生れた 土地や家に関わる先祖系の霊的存在を色濃く受け継いでしまうのです。

 これこそ、仏教的に言う因縁なのです。

 すなわち、自分自身の責任の範囲外で先祖の因縁を無条件で受け継いでしまうのです。

 その質や量は兄弟姉妹皆同じではなく、それぞれ様々です。

 例えば、一人だけ非常に強い因縁を受け継ぎ、他の兄弟は健康なのに、その人だけ病気がちであるといった事もあります。

 この様に、出生のとき自分の生きざまに関係なく受け継いだ、無数の先祖系の霊的存在の波動がミックスされて、其の人の生まれながらの基本的波動を形成するのです。

 では、どのような経過で先祖系の霊的存在を受け継ぐのかというと、父と母が結婚しセックスをする事によって子どもができます。

 セックスは、恥骨と恥骨をぶつけあい、お互いが仙骨や骨盤に色濃く持っている先祖系の霊的存在を交換し合う行為なのです。

 その行為によって父の家系と母の家系の霊的存在が混ざり合い、その一部が母の骨盤と仙骨に包まれた子宮の中で育つ、子供の仙骨に入り込んでいくのだと思われます。

 余談ですが、例えば父が浮気をした場合、父と母の家系に加えて浮気の相手の女性に繋がる先祖系の因縁まで、父を通じて受け継いでしまう結果になってしまう恐れがあります。

 又、同様に最近の映画にもあった「あげまん」「さげまん」といった事も現実に有り得るのです。

 つまり、男と女がセックスをする。その時、男の持っているエネルギーが女のエネルギーよりマイナスが強い場合は、女の相対的にプラスのエネルギーを受ける事によって男の状態が良くなり、その女は「あげまん」となるわけです。

 当然ですが、その逆が「さげまん」となります。

 いずれにしても、肉欲にかられて軽はずみに不特定多数とセックスをすると、目にみえない部分でとんでもない因縁を自分の家系に引き込んでしまい、自分だけでなく子孫に至るまで禍を受けてしまうような結果を生んでしまう事が有りますから、くれぐれもご注意ください。

 結婚は、縁の有る御互いの家系の因縁を夫婦が力を合わせて浄化していく(=先祖供養)為のものです。

 その意味から、二人だけの結婚ではなく家系と家系の結婚であり、先祖に対しても子孫に対しても非常に重大な責任を伴うのです。

 不特定多数の人との性交渉を否定する事は出来ませんが、この世的な責任に加えて、あの世的なそれ相当の責任が伴うのだ、ということを忘れてはいけません。

 結婚を軽視し、「バツいち」とか「バツに」がもてはやされる今の世の風潮は、霊的な世界の乱れを象徴しているものと思われ、まことに嘆かわしい限りです。

気で見る人生

 先程述べた様に、人間はこの世に生まれ落ちた時点で既に様々な因縁にまみれており、それらのおりなす複合的な波動が其の人の基本的な波動ということになります。

 何度も言いますが、因縁とは、この世にさ迷っている先祖系の「魂+意識エネルギー」の集合体であり、私達は全てそうした因縁を色濃く肉体に受け継いでいるのです。

 そして、その複合的な波動がその人の人世を左右すると言っても過言ではありません。

 幼いうちはまだ自己が確立していませんから、特にそうした波動に大きく左右されます。

 よく、「この子は死んだお爺さんと顔つきやしぐさまで似 ている。ひょっとして、お爺さんの生まれ変わりかも知れない。」といったような話を聞きますが、それは生まれ変わりではなく、孫を愛する想い、言い換えれ ば孫に対する執着心が祖父の魂を孫の肉体に止めてしまっているという事実を示しています。

 従って、たとえ人を愛する想いであっても、世界平和を願う想いであっても、他のどんな高尚な想いであっても、この世に想いを残せばそれは執着心であり、その力で魂は一定期間この世に引き留められてしまうのです。

 要するに、この世に想いを残してはいけないのです。

 但し、その想いの質によって波動も違えばこの世に残存する期間も異なります。

 例えば、苦しみに耐えかねて自殺をしたとします。

 死ぬほど苦しいわけですから、死ぬ直前のその想い(意識エネルギー)の量と密度は通常の状態の何倍、いや何十倍にも相当する事でしょう。

 この場合は、普通に亡くなった人の何倍もの期間この世をさ迷い続ける結果となり、その波動も皮膚に鳥肌が立つようなおぞましい波動となることでしょう。

 そして、何等かの縁でそんなものに取付かれた場合、感受性の強い人なら同じ様に自殺してしまう恐れすらあるのです。

 また、こんな霊体程強力にすがりつくのです。(マイナスのレベルが強い為)

 逆に、世界平和を願っていろいろ活動をしていたがその想いを果たせずに亡くなり、残念な想いをこの世に留めたとします。

 この場合は、自殺した人に比べればその波動は柔らかく、あまり他人にすがりつくといった事は無いと思われます。

 但し、世界平和を願って同じ様な思いを持って活動している身内や友人があれば、その人に取付く可能性はあります。

 しかし、この場合は取付いたとしても禍となるような事はあまり無いと思われます。(マイナスのレベルが比較的弱い為)

 この様に、自分の意思で生き抜いて来たと思っていても、実は目に見えない部分で大きく影響され、左右されている場合が多いのです。

 特に幼い時はなおさらなのです。

 成人するにつれて自我が目覚め、自我が確立していきますが、通常は誕生の時色濃く受け継いだ先祖系の基本的波動の上に、自我という波動を積み重ねていきます。

 この段階で真の生きる目的を理解し、己の内なる魂に意識を向け、自身の浄化に努めなければならない事に気付く事が出来れば良いのですが、今の世の中ではそうした人は皆無に近いといっても過言ではありません。

 自我は、物質文明に毒された今の世の中ではたいてい我欲 (肉欲)となり、我欲は同様の波動を周囲からある程度時間と空間を越えて呼び集め、導通して、さらにそれを増幅してゆき、我欲の増幅は真理との対立を増幅 し、結局、自身が受け継いだ基本的波動の上にさらに色濃く因縁を上積みしていく結果を生んで行きます。

 自身を含めた先祖系の因縁を解消し、浄化していかなければならないはずの人生において、逆にその因縁を増幅してしまうのです。

 そんな人の死後は子孫に仇なす霊的存在(魂+意識エネルギー)となり、さらにそれを受け継いだ子孫が因縁をさらに増幅して、際限無く繰り返して行く事でしょう。

 私は、ある意味ではこれこそ輪廻だと思います。
 

想いは実現する

 何度も同じ事を書きますが、何度も出て来る事程大切な事だと考えて下さい。

 人間の意識(想い)はエネルギーであり、そのエネルギーは4.5次元的エネルギー、すなわち半物質エネルギーだと思われます。

 そして、その想いは強ければ強いほど、又、密度が高ければ高い程、だんだん物質化し際限無く物質に近づいていきます。

 物質に近づいた意識エネルギーは同じ様な波動のエネルギーを寄せ集めると同時に、より強力にこの世でその意識を実現させる方向に働き続けるのです。

 これが念力なのです。

 従って、この世で自分の欲望を実現させたければ、より強く、より密度濃く、より具体的に念じ続ければ、ある程度の時間的ずれはありますが必ず実現するのです。

 「念ずれば実現する」とよく言われるのはこの事です。

 但し、この念力には恐ろしい落とし穴があります。

 念力によって自分の欲望を増幅させ実現させるという事 は、その人は非常に強力な意識エネルギーによって押し包まれるという事であり、その人の死後、肉体から抜け出た魂は、その強力な意識エネルギーによってこ の世にひき留められ、非常に長い間この世をさ迷い続ける結果を招いてしまうのです。

 つまり、この世で念力によって得た利益は、死後の自分の未来を代償にして償わなければならないのです。

 自分の未来だけなら自業自得ということであきらめる事も出来ますが、それが自分の子孫まで禍を及ぼすとなると話は別です。

あの世とこの世

 この世は、多様なマイナスの霊的エネルギー(魂+意識エネルギー)が多重的に満ち溢れた世界、すなわちあの世でもあるのです。

 つまり、あの世とこの世は表裏一体であり、切り離す事が出来ない関係にあります。

 同じ空間にあの世とこの世が多重的に共存しているのです。

 ただ、お互いの世界の次元が違う為、一般の人ではその存在を認識できないだけなのです。

 ある意味では分からなくて幸いです。

 みんなが、あの世の事が分かってしまったら、今この世で行なっている様々な行為がいかに無謀で恐ろしい事かが分かってしまい、パニックに陥ってしまうと思うからです。

 あの世を認識出来なくとも、その世界とは誰もがみんな波動で色濃く導通しているのです。

 その中のどんな種類の、どんなレベルのエネルギーと導通するかは、その人が本来持っている基本的波動と心の在り方ひとつであると言えます。

 振動数の違う音叉は、たとえくっつけて置いてその片方を叩いてみても、もう一方の音叉は一向に振動しません。

 しかし、振動数が同じ音叉の場合は離れて置いて有っても、一方を叩けば必ず共鳴するのです。

 これと同じことが、あの世とこの世の間で、あるいはこの世同士で、又あの世同士で起こっているのです。

 つまり、意識という4.5次元的エネルギーが媒体として あの世とこの世を連絡しており、この世での人間の心の有り様によって生じる想い、すなわち意識エネルギーの波動が、あの世の、あるいは、この世の同じ様な 波動エネルギーを寄せ集め、導通し、さらにその想いを増幅する事によって、この世で同じ様な波動エネルギーを持った人間を寄せ集め、その想いをさらに強力 に実現する方向へと働き続けていくのです。

 あの世においても、同じ様な波動をもった霊的存在同士が繋がりあって霊的な集団を作り、新たな霊体を取り込み続け、さらに強力な霊的集団となり、膨張し続けて行くということが起こっています。

 その代表的な例が宗教に見られます。

 但し、誤解してもらったら困りますので説明しておきますが、上記の様な霊的な集団は空間の何処かに固まって団体で居るのかというと、決してそうではありません。

 分かりやすい様に説明すると、例えば、Aという宗教を深く信心する人が 5人居たとします。もちろん、別々の住所にです。当然、この人達はAという宗教に関る霊的存在を色濃く持ち合わせています。

 さらに、Bという宗教を深く信心している人達が 5人、同様に居たとします。

 10人の人達はそれぞれ別の住所に住まいしています。

 この世的に見たら、お互いが何等かの連絡をしている場合は別として、普段はそれぞれ別個の独立した人々がバラバラに生活しているに過ぎないのです。

 ところが、この人々をあの世的に見ると、4.5次元の波動の世界ですから、Aという宗教を信心している人達 5人は、ある程度時間と空間を越えて波動で繋がり合い、一体となっているのです。

 同様に、Bという宗教を信心している人達も、それとは別個の波動で繋がりあっています。

 そして、AとBという宗教に関る霊的存在のレベルに大きな差がある場合、AとBお互いが全く別の世界に居るのと同じで、それぞれの霊的存在がお互い認識しあうことが出来ないのです。

 この様に、あの世とこの世の関係は非常に複雑な様相を呈しており、なかなか文章や言葉でひとときに説明する事は困難です。具体的な現実に遭遇した時、その都度体験を通じて理解してもらうしかありません。

 私自身も全てを知っている訳では無く、ごく一部を垣間見たに過ぎないのです。

 また、それすらも全く間違っているかもしれないのですから。
 

気で見る宗教

 宗教のことはいろいろ利害がありますので少し書きにくいのですが、差し障りのない程度に話を進めたいと思います。

 例えば、何処かの新新宗教団体の様に、少しでも批判的な事を言えば激しく攻撃されないともかぎらないのです。

 そこで、代表的な仏教について考えてみたいと思います。

 仏教は、長きにわたって日本に定着し、安定した成熟した宗教ですので多少の批判は余裕を持って大目にみてくれると思います。

 結論から言うと、宗教の世界は長い間にわたって絶妙の演出のもとに製作されて来た、非常に良く出来た映画のようなもので、誰が見ても共通のストーリーと映像を見る事が出来るのです。

 例えば、阿弥陀様と言えば仏教を信心している人なら誰もがほぼ同じ姿かたちを想像するでしょう。しかし、だれも実際その世界に出向いて見て来た訳ではないのです。

 僧侶ですらもです。

 つまり、長い間にわたって巧妙に作り上げられた想念の世界、すなわち意識エネルギーの世界なのです。

 その、意識エネルギーの世界が長い間にわたって様々な人々や、様々な場所で、様々な手法によって、密度高く、誰が見ても共通のものとして、時には国家権力の庇護の下に完璧に近い形で完成されて来たのです。

 つまり、あの世に於いて巨大な密度の高い意識エネルギーの集合体を形成しており、それに帰依した人々はこの世に生きている間から既にそうした波動エネルギーに浸され、当然死んでからもその意識エネルギーの集合体に取り込まれて行く事になります。

 そのことがほとんどの仏教で言う成仏なのです。

 たしかに、この世で生きていた時から熱心に信心し、喜びと感謝のなかで死を迎え、死後又同じ様な世界に取り込まれ、生前と同じ様に喜びと感謝の日々を送れるのなら、それは天国であり、確かに成仏なのかもしれません。

 ところが、その世界を気で捉えた場合、先に述べたとおりこの世をさ迷っている霊団でしか無いのです。

 もちろん、前に述べた様に霊団といっても空間の何処かに固まって存在している訳ではありません。

 では、何故そんな事が言えるのかといえば、霊団の様々な形態の一例及び霊団の形態変化の一例の図に示す様に、その人が、あるいはその人の先祖が深く仏教に帰依していた場合、例えば位の高い修業僧の場合、その霊体は必ずといってよいほど図の丸い輪のような形をして出現します。

 わたしには、姿が映像で見えるわけではなく,波動としてしか分かりませんので推測になりますが、多分仏教の宇宙観を表現したという「曼荼羅」の形ではないかと思うのです。

 ただ、こうした物に憑依された女性の口をついて出て来る言葉や状態を見る限り、明らかに高い地位の高僧で有るといえます。

 いずれにしても、この形で出現した霊体は非常に強力で、酒や黒砂糖、水を供えたぐらいでは全く動じません。

 そして、この霊体は無数の霊の集合体すなわち霊団なのです。(霊団の形態変化の一例の図の例では 9ブロック243体)

 さらに不思議な事には、無数の霊体の集合体で有るにもかかわらず、その人格は一人なのです。これは、憑依された女性の口をついて出て来る言葉や態度で判断できます。

 ここに、ある女性に憑依した身分の高い高僧の一例を紹介しておきます。

 まずは、その女性に対してプラスの気を送り続けます。

 すると、徐々に人格が変化し霊に憑依された状態になります。

 最初のうちはその女性は私を無視し、その人自身は全く知らない御経を、まるでこちらの気を遮るようにひたすら唱え続けます。

 さらに送り続けるとだんだん苦しみだし、今度は私に対し複雑な印をむすんだ両手で(もちろんその女性は印の結び方など全く知らない)九字を切り追い払おうとします。

 それを繰り返しても効果がなく、苦しみがつのって来ると、今度は「出たくないやめてくれ!」と哀願しだします。

 さらに無視して送り続け、肉体から徐々に出始めると、今度は私に対し正座しうやうやしくひれふします。

 すると、その直後彼女の肉体から離れるのです。

 離れた後は、私の前の空間に霊団の様々な形態の一例及び霊団の形態変化の一例の図に示す様な曼荼羅や、あるいは山形に立つのです。

 これは、あくまでも一例に過ぎず、人によって、また霊体によってその形は様々です。

 あまり先入観をもって接すると、自分の意識が現実をゆがめてしまうので、どんなのが出るのかな?といった感じで、心を真っ白にして行う事が大切です。

 これらの事から、この様に限定された特定の霊団において、その霊団が無数の霊体の集まりにもかかわらず、その霊団を統括し、支配している強力な存在が有るという事が言えます。

 たぶん、これらの霊団の中でもっともエネルギーの強いものが支配しているものと思われます。

 また、これらの霊団が空間を移動する時、その形はまさしく大蛇そっくりに空間を蛇行して移動します。

 強ければ強いほど蛇行の程度がきつくなります。そして、必ずその頭の部分に最も強力な霊体が位置するのです。

 昔から龍とか蛇とか称して祀っているのは、こうしたたぐいのもと思われます。

 多少の霊能力があれば、この様な強力な存在が移動する様を、龍や大蛇として感知できたとしても不思議では無いのです。

 この世的な利益を求める場合、こうした物を祀り拝めば力をかしてくれ、その願いを実現してくれるのです。

 何故なら、この世的な密度の高い意識エネルギーの集合体ですからこの世的なパワーは強いのです。

 但し、こうしたものを祀り拝んでいると、当然死後その霊団に組み込まれて行きます。

 また、親の代で祀っていて子の代になって祀らなくなったりした場合、祟りとして禍をなす事があります。

 本来のプラスの気は人間の身勝手な欲望を実現してくれる様な事は無く、又、祀らないからといって祟りをなすような事は一切無いのです。

 本来のプラスの気は、人間が本来持ち合わせている(授かっている)潜在能力(例えば自己治癒能力や自己免疫力等)を顕在化させ、その結果として病気の治癒や、心のやすらぎや、先祖の供養や、他の救済が出来る様になるのです。

 つまり、他からとってつけた様な超能力や霊能とは本質的に異なる、根源的能力が開花するのであり、しかも、その能力は本来誰もが潜在的に持っている(大自然の摂理として授かっている)能力なのです。

 物質文明に毒された今の世の中は、誰もがそんな素晴らしい能力を秘めた自分自身を見失い、その結果、金や財力によって他から救いを得ようと宗教や他力にすがるのです。

 他というものはどんなに素晴らしいものでも、結局は自分という存在があってこそ初めて他として認識できるのであって、自分という存在がこの世に無かったなら、他は存在しないのと一緒なのです。

 そんなものに自身をゆだねるなどということは、いかに愚かな行為であるか、一日も早く気付いていただきたいと思います。

 但し、この事は日常に於いて他を信用するなと言う事では決してありません。

 必要以上に他に頼るな、と言う事ですからくれぐれも誤解の無い様にして下さい

 さて、話が大変それてしまいましたがもう一度霊団の形態変化の一例の図に戻ると、先程の曼荼羅と思われる霊体に、さらにプラスの気を送り続けると、図の様に山の形をした霊体に別れます。

 図の例では曼荼羅から 9体に別れる事になります。

 その山の形をした霊体は図の例の場合、今度はさらに9ブロック27体の霊体から構成されています。この山の形は、多分、中央がご本尊で左右が脇士(わきじ又はきょうじ)だと思われるのです。

 この形は仏教伝来の昔から正式な仏像の祀り方なのです。

 さらに、この山の形をした霊体にプラスの気を送り続けると、今度はさらに小さな山の形となり( 3体)、さらに送り続けてはじめて一体の霊体となります。

 曼荼羅の状態からここまでにするには大変なエネルギー量が必要です。

 中途半端な能力者では逆に身体に侵入され、支配されかねないほど強力なものです。

 こんな恐ろしいものが人間の身体の中から出て来るのです。

 しかも、人によってはこんなものがいくつも出て来るのです。

 この様に、人間の肉体は無数の霊的エネルギーに侵されて おり、中でも特に宗教に関係する霊体や、怨念による霊体(怨霊)はそれぞれ強力です。(但し、宗教にかかわる霊体と怨念にかかわる霊体では波動の質が違 い、同列に論じる事は失礼かと思います。しかし、この世に想いを残しさ迷っているという点では同列なのです。)

 では、何故この様な強力なものが出て来るのか、一つの例をあげて説明しておきたいと思います。

 ここに、一人の熱心なある宗教の信者が居たとします。

 たいていの人が信心をする場合、病気を治してもらいたいとか、夫婦の仲を良くしてもらいたいとか、家出の娘を家に帰してもらいたいとか、いずれにしても強い依存心で伏し拝むのが一般的です。

 前に述べた様に、人間の意識はプラスの気に比べれば基本的にはマイナスのエネルギーなのです。

 そして、中でも依存心は強いマイナスのエネルギーなのです。

 分かりやすい様に数字をあげて説明してみますが、例えば朝、昼、晩と、仏前でマイナス100のエネルギーで拝み続けたとします。

 すると一日でマイナス300、一ヶ月でマイナス9,000、一年でマイナス109,500、十年でマイナス1,905,000、五十年でマイナス9,525,000ものマイナスエネルギーとなって蓄積してしまうのです。

 これを打ち消すには、当然ですが一日プラス300を供給して五十年かかるという事になります。

 これで、依存心をもって拝むという行為の恐ろしさを多少は理解していただいたと思います。

 信仰の自由は憲法で保証されている訳ですから皆さんの自由です。

 しかし、誤った信仰の仕方によって、くれぐれも、自分自身や家族や子孫を拝み倒す事の無い様御注意下さい。

あの世に地獄は無い

 よく、天国とか、地獄とか、餓鬼界とかいわれますが、果たしてそんな世界が死後あの世に有るのでしょうか。

 結論として、有る事はあるのですが、前にも述べた様に、あの世は無限に近い様々な霊的波動が混在する世界ですから、何かで区切った様にここからここまで地獄界、ここからここまで餓鬼界といった具合には分かれてはいないと思います。

 波動の世界ですから、無段階に、しかも多重的に存在しますから、そんな単純なものではありません。

 ただ、はっきり言える事は、例えば色情因縁にまみれ、女の尻を追い回す事が生き甲斐の男性が居たとします。そして、欲望のままにこの世を過ごし、女に執着を残し亡くなったとします。

 こんな場合は、確実に生前と同じ様な波動の世界に自動的に取り込まれていくのです。

 そして、生前と同じ様に、女の尻をひたすら追い回してあの世に在り続けて行く、すなわち、この世をさ迷い続けていくのです。

 では、その霊体にとってその死後の世界は地獄なのでしょうか?

 いや、天国なのです。

 何故なら、生前生き甲斐にしていた生きざまのままに、在り続ける事が出来るのですから。

 もちろん、絶対的な目で見ればそれは悲惨な色情地獄かも知れません。

 しかし、そんな事に関係なく、当人に取ってはそこは天国に等しいのです。

 また逆に、そんな人が仙人の様な悟った人達ばかりの居る天国へいったとします。

 そこでは、その人にとってだいきらいな人種である悟った人ばかりで、女が居てもとても相手にしてくれない、そんな世界では色情に狂ったその人にとって、そこは地獄以外の何物でもないという事になります。

 この様に、生前の生きざまにふさわしいあの世の世界に行けるのだから、あの世には地獄は無いということが言えます。

とこ世への道

 この様に、あの世とこの世は相互に連関し合い密接な関係を保ちながら、複雑に絡み合い、循環し合い、うねり続けていくのです。

 その閉鎖された循環系から逃れ、永遠のやすらぎを得るには一体どうすれば良いのでしょうか。

 決して難しくは無いのです。

 前に述べた通り、人間は本来素晴らしい、神とも置き換える事の出来る純粋無垢な波動エネルギーである、魂を自身の胸の内に授かっているのです。

 そして、それと同じ波動エネルギーは人間の意識エネルギーからすれば非常に密度は薄いものの、辺りに満ち満ちて居るのです。

 従って、その波動エネルギー(プラスの気)と導通する事は人間にとっていとも簡単な事なのです。

 すなわち、常に自身の持つ魂に意識を向け、それをこころ より信頼し、感謝しながら、その胸の魂と同じプラスの気を周囲から取り込み、魂のプラスの気をどんどん大きくしていき、自分の肉体を覆い尽くすほどに、さ らに地球を、さらには全宇宙を覆い尽くすほどに、ひたすら大きく密度高くしていく事なのです。

 プラスの気は、意識エネルギーという使いようによってはとても重宝なエネルギーによって自在にコンタクト出来るのですから、自分自身の意識を自在に拡大していけば、どれだけでも拡大し密度を高めることが出来るのです。またその逆に、どれだけでも縮める事も出来るのです。

 プラスの気の世界では出来ると思った事は全て実現できるのが特徴です。

 但し、この世の物質的な欲望を満たす事はできません。

 ただ、前にも述べた通り、意識エネルギーはこの世に肉を持って生きていてこそ初めて発動できるのであり、またその使いようによってはとんでもない悲惨な結果を生む原動力にもなりますから、これからは正しい意識の在り方について一生懸命学んでいただきたいと思います。

 これからもし革命が起こるとしたら、それは意識革命であるべきなのです。

 それほどに、これからの私達、いやこれからの全宇宙にとって意識は重要なキーポイントであると考えます。

 どうか、科学者の皆様の力でその実態を誰にも分かる形で解明していただく様、心より御願いするものであります。

 さて、自身の意識エネルギーを正しく使い、プラスの気に満ち溢れた人の波動は全体としてほぼ球形をしています。

 これに対して、この世的な霊的波動エネルギーに包まれた人の波動は人形(ひとがた)をしています。

 プラスの気に満ち溢れた人は、頭でこうしなければ、ああ しなければと考えなくても、ふっと思った事が無理なく実現するようになり、おのずからその心もやすらぎ、本来の潜在能力に目覚め、それらの能力を駆使する 事によって、さらに安定したやすらぎの境地へと到達していくものと思われます。

 そして、そんな人が死を迎えた時、誰の供養を受けなくてもあの世の霊的世界に引き込まれる事も無く、即座に魂のやすらぎに満ちた世界に自動的に引き込まれて行くのではないかと思われるのです。

 魂の世界は、多分人間としての無意識界であり、宇宙意識とも言える様な尊い、有り難いプラスの気そのものではないかと推測するのです。

 つまり、もう二度とあの世やこの世に帰る事はなく、それらを超越して、あまねく宇宙をそのプラスの気で満たして行くのではないかと思われます。

 また、そんな事では無く、ひょっとしてどこかの書物で読んだ事があるように、そこから真の人間としての世界が広がっているのかも知れません。

 この辺は完全な空想ですから、死んでからの楽しみです。

いずれにしても、分かりもしないのに死んだらこうなると思い込み、決め付ける事は死後もその強力な意識エネルギーによって拘束され、本来行けるべき所へ行けなくなる事は間違い無い様です。

 したがって、死んだらどうなるのかなあ?分からない事は分からない、と素直に受け止める勇気が大切です。

 本来、人間は自分の意思でこの世に生まれて来たのではな く、見えざる偉大な力によってこの世に産み落とされたのですから、死後もその偉大な自然の摂理によって、行くべき所へ行かせてくれるのですから、何もか も、生命の誕生の秘密や死後の世界迄も自分の頭で理解し、我が物にしなければ気が済まない、といったような驕りは厳に謹むべきだと思います。

修業について

 今まで述べて来た事を踏まえて、修業について考えてみると、結局、修業とは、自分自身の魂をひたすら信じ、生かされている事に感謝し、生かされるままに、たんたんと、現実を精一杯受け止め消化して行く事だと思います。

 つまり、日常をたんたんとやり過ごしていく事こそ修業だと思います。

 今、生かされている生活の場こそが修業の場であり、特別な場所や手法を見つけなくとも十分なのです。

 修業と称して、難行苦行をしても、結局は苦しみの意識エネルギーを増幅させるだけのものであり、また、修業をしなければ、といった脅迫観念の様なものが同様に悪い意識エネルギーを増幅し、ことごとく本来の修業の目的から逸脱してしまう様な結果を招いてしまうのです。
 

 

 いずれにしても、ここまで書いてきた様々な事を振り返ってみると、「人間てなんて素晴らしいのでしょう!」としか表現する言葉が見当たりません。

 自分自身で完全に自由になる、素晴らしい偉大な可能性を秘めたこれからの皆様の人生を、心より祝福するものであります。
 

あの世とこの世のイメージ図

  
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気の充実の為の環境整備と心構え

家屋敷の気のレベルを高める

 私達が住まいする家屋敷には様々なマイナスの気が存在しています。

 自分の気を高めるには、何よりも先ず自分が住まいする家屋敷の気を高め、その土地のマイナスの気をできるだけ少なくさせる必要があります。いくら自分自身の気を高めても、自分の身を置く土地の気が悪ければ、その気の悪影響から逃れる事が出来ないのです。

 又、土地の気を高めておけば何等かの原因で自身の気のレベルが下がった時、その土地に帰ってある程度時間が経過すれば徐々に元に戻る事が出来るのです。

 つまり、自分自身がズルズル悪くならない様に歯止めをかける重要な意味があります。

 逆に言えば、悪い土地に住んでいる人に気のレベルの高い人は居ないと言えます。

 熟練者により気を注入した砂を四隅あるいは数ヶ所(多い 方が良い)撒く事によって、その土地の気のレベルを全体的に高めます。(熟練者の力を借りなくても、自分自身の気を砂に注入して、自分の波動レベルが上が る都度、気を注入し直していけば、それにつれて土地の気のレベルも徐々に高くなっていきます。この様に自分の力で行うのが最も理想です。)

 別に砂でなかっても良いのですが、砂は水に溶けないし、 粒子が細かく表面積が大きい為気を注入しやすい利点があります。(余談ですが、気のレベルの高いものに金銀財宝があり、お金のある家はこうしたものを土地 に埋めるのも一つの方法です。平安の昔、貴族は地鎮めと称して金銀財宝を屋敷の四隅と中央部に、素焼きの壺に入れて埋めたそうです。又、身近でも家を建て る前に猿田彦神社等でいただいた砂を四隅に撒きますが、事実は分からないままに形式だけが残ったものと思われます。)

 この砂を撒く事によって、様々なマイナスのエネルギーが浮き上がり、一時的に強いマイナスの気が家屋敷に溢れます。(期間は様々で、その土地によって違います。一週間から一ヶ月以上)

 この時、そのマイナスの気に対する感受性の強い人は、これらに感応して一時的な病気の悪化や不快感、悪夢、金縛り、不眠、カラ咳等を訴える事があります。又、やたら眠くなる人も結構居ます。

 こうしたマイナスの気は徐々に少なくなり、いずれは全体的にレベルアップされますが、前述の様に多少時間がかかります。

 そこで理想的には気の分かる熟練者に強制的にマイナスの気を近くの川や池、海に流してもらう事が早く良くする為の一つの方法です。

 もちろん住居ばかりでなく職場や子供達が通う学校等も同様に行う事が理想です。

 但し、外部からのマイナスの気の流れについては元から断たなくては解決しません。

 しかし、それが他人の土地であったり、持ち物であったりした時、非常に厄介なものがありますので、その場その場で対応していくしかありません。

 いずれにしてもマイナスの力を撥ねつける様な力はより強いマイナスでしかなく、プラスの気は一旦受け入れた後徐々に浄化していく力は有っても、自分の家屋敷だけをバリアーで強固に守るような事は不可能ですので十分御注意ください。
 

家の中に最も気のレベルの高い所をつくる

 家屋敷全体の気のレベルが上がったら、次に家屋敷の中で最も気のレベルの高い所を作ります。本来、この場所が仏壇である事が理想ですが不可能な場合が多いので別の場所でも良い。(例えばカラーボックスのの中とか、本棚の上とか)

 方法は、やはり熟練者の気を注入した紙等を(木板等でも良いが、紙が気も注入しやすく、手頃だと思います。)置き、その上にコップや湯飲みに入れた水、日本酒、および黒砂糖を置きます。

 場所は居間等家族が最も良く集まる所が良いと思います。

 なを応接等他人がよく出入りする所は避けて下さい。(他人の因縁まで引き受けてしまいます。)

 この事により、以後家族の身体から続々と出て来る、家族が外から持ち込んで来る、あるいは家屋敷にしつこく残留しているマイナスの気をこの場所に引き止め、徐々に消していくと同時に家族や自分にまとわりつかない様にします。(強いものは効果が無い場合もあります。)

 水や酒、黒砂糖を置くという方法は体験的に非常に効果があることが分かっています。

 但し、他にももっと素晴らしい方法が有るかもしれませんので皆さんも研究してみて下さい。

 試行錯誤の中からより良い道を模索して公開していくのは、こうした事により何等かの恩恵をこうむった者達の責務だと思います。
 

家屋敷の中のマイナスの強いものを遠ざける

 マイナスの付きやすい物、あるいは発生している物には色々在りますが、一般的に人形、庭石、書籍、絵、掛け軸、写真、御札、骨董品等々数え上げれば切りがありません。

 時には、まさかこんな物にと思うような物(例えば皮バンドや靴、櫛、腕時計、指輪、イヤリング、ネックレス等)にまで付いている事が在ります。

 結局のところ、早く自分でそうした物の見分けが付く様になる事が最も良い道です。

 そうした物が見つかったら、出来るだけ処分するのが無難です。
 
 中には気を入れ替える事が簡単に出来る物もありますが、たいていはそんな事をしない方が安全です。

 処分の方法としては色々有りますが無難と思われる方法の一例として下記の方法があげられます。
 

・水に流す(環境問題からあまりおすすめ出来ませんが)

・元に返す (御札等)

・封印して必要な時だけ取り出す(但し、強い物の中には封印できない物も有 ります )

・黙ってゴミ処理に出す(効果の無い物も有る)

・熟練者にマイナスの気を取ってもらう(マイナスの気は取るというより、ふさ わしい行き先を見つけてやり、案内してや ると考えた方が良い。これも出来な い物が有ります。)

 処分の悪い方法の一例として下記があげられます。
 
・自分で焼却する(焼却したら、焼いた人に取り付く可能性が大きい)

・倉庫等にしまう(マイナスの気には人間が考えるような壁や仕切りは関係無い場合がほとんどですから、しまいこんで安心してはいけません。)

・家屋敷の地中に埋める。

気のレベルの高い場所を広げて行く

 自分の家屋敷が良くなったら、今度はその範囲をどんどん広げていく事が理想です。

 例えば、自分の実家や先祖の寺や墓、妻の実家や妻の先祖の寺や墓、近所の公園、近くの川や池や山といった具合です。

 自分の先祖系の霊的存在が自分の肉体や家屋敷だけに止ま らず、死んだら寺に行くと、生前思い込んでいる人はその想いが寺につれて行きますから寺に居ますし、同様に死んだら墓に行くと思い込んでいる人は墓に居る 為、そうした場所の気のレベルを高めてやると大変な供養になると同時に自分自身のレベルの向上にも深く拘わってくるのです。

 又、山や川や池や公園の気のレベルを高めるともろもろの雑霊を供養する事にもなるし、さ迷っている霊体の行き先として良い場所となるため大切な事です。

 ただ気を注入した砂を撒くだけですからそんなに大変な事ではありません。

 そうする事によって地域全体の空間の気のレベルが高くなります。

 最終的には個々の人々の住まいする土地ごとにレベルを高めていく事が理想ですが、あまりあせらなくても良い事ならば自然に広がって行く事でしょう。

気と取り組む為の心構え

 以上のような事を行なうことにより、いよいよ自分自身の気のレベルの向上、すなわち自分自身の肉体の内外に止まっているマイナスの気を追い出す事に取り組んでいく身辺の環境が整ったという事になります。

 ではこれ以降良い事ばかりが続くのかというと決してそうではありません。

 何故なら、戦争中に戦争反対を唱えると、正しい事を言っているにも拘わらず非国民とか国賊とか言って虐待され、辛い悲しい想いをした人達が居たのと同じ様な事が起こるからです。

 つまり、今の世の中全般が長い間こうした事柄にあまりにも無頓着で有り続けた為に、世の中全体に様々なマイナスの気が溢れ続け、私達の周囲全部がマイナスの気で満ち満ちているのが現状だといっても過言ではありません。

 その結果ごく一部の人達がその過ちに気付き、真剣に取り組んだとしても、逆に周囲のマイナスの気に押し潰されてしまうといった事が現実に起こりうるのです。

 正しい事を行なっているにも拘わらず、人一倍苦痛を味わうといった現実が有るから困るのです。

 しかし、ここであえてあなたに問います。「みんなと一緒 になって同じことをやっていれば、とりあえずの苦しみからは逃れられる。例え、後々異常な事態が起こっても、その時はみんな一緒だから恐くない。」という ふうに考えるのか、それとも「例え今が苦しくても、幕末の吉田松陰やその門下生の如く新しい時代の夜明けを願って、その先駆けとして努力し続ける。」とい うふうに考えるのか。

 話は少々オーバーになりましたが、気と取り組んで行くには、まさしくこうした重大な選択と一大決心が必要だと思うのです。

 これは、一人あなただけではなく、運命共同体ともいえる家族みんなも巻き込んでしまう事態となりますので、理想的には家族みんなが積極的に取り組んでいくのが最良です。

 しかし残念ながらそうした家族はあまり多くありません。
 

気との取り組みによって起こる異常

 以下に、気に取り組む事によって起こった異常の例の数々を列記しておきます。

・やたらと眠くなる、だるい

比較的多い現象で特に問題はない。
・悪夢を見る
マイナスの気に夢という形で潜在意識が感応している為だ と思う。

風邪を引いた訳でもないのにカラ咳が止まらない、咳が出て痰が出る、微熱が出る、鼻汁が出る、喉がおかしい、突然下痢をした……いずれも体内の悪い物を排出する作用で心配ない。

ひどければ医者に行くこと。

・節々が痛む(神経痛の様)
マイナスの気が抜けて行くルート上で、通りの悪い所でしばしば起こる。


・頭痛がする

気のルートは大半が頭頂から手または足 へと通っている為、頭頂のルートが開通する時起こる場合が有ります。(不思議な事に頭痛がすると共に頭頂部にコブの様な膨らみができ、頭痛が治ったと思っ たら、その部分が陥没していたといった具合に、固いはずの頭蓋骨に変化が起こる場合が有ります。この場合は一歩前進した証拠だと考えて下さい。)


・持病が悪化した

病巣に滞っていたマイナスの気が動き出した証拠だと思う。医者の治療を受けながら様子を見る事。


・金縛りに合う

周囲のマイナスの気に感応する為に起こる。よく寝入りばなの、表層意識が薄れていく時にかかり易い様です。
・職場や学校へ行くと気分が悪い
自身のマイナスがとれた分だけ敏感になり、今まで感じなかった物を感じるようになったのが原因。対策としては学校や職場に砂を撒く。
・人混みの中に行くと気分が悪い
上記同様自身が敏感になったのと、過度的な現象として、一時期周りの人達のマイナスの気をもらいやすい頃が有ります。

対策としては、マイナスの気に取り付かれた時に自分なりの除去方法を身に付ける事。
例として近くにきれいな池や川が有れば、そのほとりで草や木をつかむ。

あるいは熟練者が気を入れた紙や砂の前に水、酒、黒砂糖等を置きその前に立つ。最悪の場合身近な熟練者に取ってもらう。

この場合出来るだけ他力にすがらず、苦しみ抜いたうえで、自分なりの方法を考え付いた方が上達が早い。

・今まで親しかった人が嫌になる。
あるいは妻が夫を、逆に夫が妻を嫌になる・・・これも上記と同じ様な事ですが、前にも述べたように家族の場合は共に協力して取り組まないと、片方だけ進んでしまいこんな事が起こります。

出来るだけ、共に手を取り合い進んでいった方が良いと思います。

他人の場合は、一緒に取り組んで行けるのが理想ですが、やむを得ない場合は離れていったとしても、それも運命だと考えて下さい。

 これらは自分自身の肉体内部のマイナスの気が肉体を離れまとわりつき、内部に収まっていた時にはなんとも無かったのに、一度外へ出て自分にまとわりつくと苦しい想いがする。

 あるいは、肉体から抜け出る途中に於いて、そのマイナスの気に様々に感応してしまい苦しい想いをする。

 又、自分のマイナスが減った分だけ敏感になり、今まで何も感じなかった周囲の物を嫌に感じる。

といった事のようですが、必ずしも全ての人に起こる訳ではなく、感受性の強い人と弱い人では雲泥の差が有り、何も分からずに過ぎてしまう人達もたくさん居ます。

 いずれにしても、自分が向上していくうえでの過渡的現象 である事には違いありません。(期間はまちまちで三日から十日、長くて三ヶ月以上の場合もある)列記したことはほんの一部ですが、取り組むうえでの参考に してください。ただくどいようですが誤解してほしくないのは、全ての人がこうした苦痛を味わうのかというと、そうでは無く千差万別だということです。

 又、そうした苦痛が有っても、それは一時的な事であって、自分の取り組み方次第で早く上達できればその分そうした苦痛から早く逃れる事も可能なのです。

 いずれにしても、ある程度の段階からは、普段はごく普通の人でいて、マイナスの気を知りたいと思った時だけ分かり、しかも自在に扱える。

 さらに、マイナスの気にまとわり付かれる事も無くなり、 その人が居るだけで雰囲気が明るくなり、誰からも好かれ、自分が意識するしないに拘わらず、周囲のマイナスの気がシュワーシュワーと消えていくといった、 まるで「歩く供養塔」の様な存在となれるのは間違いありません。

 当然、そうしたプラスの気に満たされた自分自身も、心穏やかで平穏な日々を過ごせる事は言うまでもありません。

 世界の人々がこの様な「気」を自在にし、「気」の充実した人達になればおのずから平和な世界が訪れるものと確信致します。

 

 

 

気を充実させる

気の強い物の前で瞑想する

 熟練者の前、熟練者に気を入れてもらった紙や砂の前、太陽に当たりながら、気のレベルの高い場所等で冥想する。

 瞑想している時、身体が自然に激しく動いてきたり、胸が苦しくなっ たり、様々な想いが浮かんできたり、泣けてきたり、頭痛がしたり、その他色々な現象が起こる場合があるが、なされるままにし、そうした事に意識を向けないようにしてやり過ごしていく事。

 くれぐれも悪い所や人混みの所や嫌な感じのする所では行なわない事。(冥想する場所を選ぶ事が非常に大切です。) 

 冥想する時の意識の有り様については、よくどこまでも無になり宇宙と一体になるといった事を聞くが、この場合はあくまでも気を充実させる事が主眼なので下記を参考にしていただくと良いと思います。
 

・誰もが胸に(気功で言うだん中)に小さいながらも、光り輝く素晴らしいエネルギーを持っていると思う。

・その光球と同じ光が、太陽からあるいは自分の周囲に溢れていると思う。

・その光を胸から吸い、自分の胸の光球をどんどん大きくしていく。 ピンポン球から野球のボール、ソフトボールさらにはドッヂボール、そし て自分の身体を覆い尽くして、どんどん大きくなっていく事を思う。

・それと同時に、自分の身体の中に有る暗く、荒い、そして冷たい悪いエネルギーが頭頂や手先、足先、尾底骨の辺りから吹き出して行く事をイメージする。

・冥想の初めに、そうしたイメージで行なえば、途中はあまりこの事にこだわらなくても良い。後はリラックスしてただただ「ボンヤリ」といった感じの方が良い。
 

私としては、ガラス越しで太陽に当たりながら行なうのが最も良いと思う。
 

イメージを豊かにする

 人間の意識はエネルギーであり、意識の有り様によっては、自分自身が自作自演の俳優の様に「天国」から「地獄」迄演じる事が出来る力を持っています。

 従って、「天国」を演じたければ常にプラス志向であれば良い訳です。

 但し、そのプラス志向も限度が有り、執着してはいけない。

 ほのぼのと「こうなればいいなあ〜。」程度にする事です。

 気力さえ充実していればその程度で十分です。

 話がそれましたが、つまり人間の意識は、先に述べた「気」を自在に操るコントローラーとしての力も持っているのです。

 従って、上手にイメージするトレーニングをつむ事が気を自在にする事に繋がるのです。

 もちろん、気を既に感じる事の出来る人なら簡単な事です。

 しかし、気を感じられない人でも、その人のイメージ通りに気は動いているのです。

 熟練者に立ち会ってもらって、それを確認すると、そのことが良く分かるはずです。

 以下にその参考例を示します。

・前にも書いた様に、自身の胸に気の球をイメージして、それをどんどん大きくしていく。

・太陽をイメージして、直接太陽に当たらなくても、その気を受ける様にする。

・自身の悪い気や周囲の悪い気を、池や川へ導くイメージをトレーニングする。

・自身の気を伸ばし遠くの物をさわり、その感じをつかむイメージをトレーニングする。

・自身の気を離れた所の紙等に注入するイメージをトレーニングする。


 こうした事を根気良く積み重ねる事により、いずれ何等かの形で気の存在を自覚出来る様になれると思います。
 

自分よりレベルの高い人に常に接する

・電話で話をするだけで良い。

 プラスの気だけで無く、マイナスの気も電話を通じて移動したり循環します。

 特に、電話は相手の姿や表情が分からない為、よりよく理解しようと相手に意識を集中する為、その分直接会って話し合うよりはるかに強く相手のマイナスの気を受けてしまいます。

 電話は文明の利器で有ると同時に、凶器にもなるのです。

 熟練すると電話を通じて相手の悪い気を取り除いたり、良い気を送ったり、相手の状態をチェックしたり出来る様になります。
 
 又、何もしなくても電話をつないだだけで、レベルの差を埋め合う形でエネルギーの移動が起こります。

 さらに一旦つながると、電話を切った後も、つぎの電話がどちらかにつながるまで気のレベルで繋がっているという事を知っておいて下さい。

・その人をイメージするだけでも良い。 
 気のエネルギーは水が高い所から低い所へ流れる様に、レベルの高い人と接するという事は、その人の高いエネルギーを一身に受ける事になります。

 ただ水と違う事は、必ずしも一方通行だけではなく、相手に気を送った場合必ず相手の気もこちらに来ているのです。

 従って、中途半端な能力者では相手に気を送った場合、必ず相手のマイナスの気を受けてしまいますので注意が必要です。

 相手の気を受けなくする事は不可能に近いのですが、熟練度によって、一度受け入れた物を消し去ったり、遠ざけたりするのにかかる時間が、レベルが上がるにつれて早くなります。

気功水を飲む

 水を飲む時、自分の胸から気を注入し「気功水」として飲むと良い。

 人間の肉体はその大半が水で構成されているのですから、その水の気のレベルを高める事は非常に効果があります。

 敏感な人は、気を入れる前と気を入れた後の水の味わいの違いを感じる事が出来ると思います。

 入浴の時にも、浴槽の水に気を入れてから入るのも効果が有ります。(一握りの天然塩を水に入れるとより気が注入し易くなります。)
 

全身が写る鏡の前に立つ

 鏡の前に立ち自分の全身の姿を写すだけで効果が有ります。

 たぶん、自分の身体の中の最も気の強い部分からでる気が鏡に反射し、全身にいきわたるからだと思います。

 御神前には必ず御神鏡が有りますが、関係が有るのでしょうか?

 もちろん、この場合も必ず良い場所で行なって下さい。

 
手当をする

 身体の調子の悪い箇所に手を当てる。

 全身の関節や仙骨、腰骨(骨盤)、挫骨等に手を当てる

 手のひらは胸に次いで気のレベルの高い所です。

 従って胸から直接気を送りにくい人は、胸から手を通して送る感じで送るとうまくいく場合が有ります。

 関節は構造上どうしても気の流れが滞りがちです。

 そこへ気のレベルの高い手のひらを常日頃当てる事によって、気の流れを促進させる事が出来ます。

 特に、骨折したり、捻挫した箇所は外見は治っていても、気の流れで見た時に滞っている事が多く、それが原因
でとんでもない所が病気になっている事が有りますので、そういう場所はより念入りに手当して下さい。

 昔から、病気の治療をする事を「手当する」と言うのは、ここから来ているのでしょうか?

 下着類に気を入れて着用するのも良い方法です。

 
シャワーでマッサージする

 入浴時にシャワーで前述の関節や仙骨、腰骨、尾底骨等をマサージするのも良い。

 又、頭頂部からシャワーをかけるのも良い。

 家屋敷に砂が撒いてあれば、その地中を通っている水道水にはある程度気が移っている為効果が有ります。

 「水」であることにも意味がある。(マイナの気は水に融合しやすい、特に海水)

 シャワーの温度を熱い目にしたり、冷たい目にしたり変化を与えるのも良い。

 何も山奥の滝で苦労して行を行なわなくても、自宅の浴室でも効果は十分望めるのです。

 形だけを求めのでは思いもよらない事実です。

 もちろん大自然の中で滝に打たれ修業をする事を否定するものではありません。

 しかし、水辺には様々なマイナスの気が集まっている為、例え山奥であろうと良い場所であるという事が絶対条件です。

 良くなければ、気を注入した砂を撒くなどして良い場所にする必要が有ります。
 

赤外線ランプの効用

 赤外線ランプを点灯すると、霊的なマイナスエネルギーがその周囲に吸い寄せられる様に集まってきます。(たぶん霊的なマイナスエネルギーにとって温かく柔らかい、気持ちの良い波動が出ているからだと思います。)

 この特徴を利用して自分自身のマイナスエネルギーを除去するのに大変効果が有ります。

 意外にも赤外線ランプの効能書を見ると、驚くほど様々な病気に効果の有る事が分かります。
 
 逆に紫外線ランプは霊的なマイナスエネルギーを遠ざける効果が有ります。

 霊的な流れの中に紫外線ランプを置くと、その流れはランプを避ける様に流れを変えます。

 


 以上参考として色々書きましたが、これらはあくまでも参考であり、自分に合った方法をいろいろ実践する中から見つけ出して下さい。

 そして又、逆に教えて下さい。形や常識にこだわる事無く、自在の発想で素晴らしい方法を見つけ出す為の一助としていただければ幸いです。

 気功やヨガ、座禅等も素晴らしい方法であり、共通する面も多々あります。

 ただ、どれと取り組むにしても「エネルギーレベルの高い、良い場所で有る」という事が絶対条件で有ると共に、自身の「意識のあり方」が何よりも重要であると思います。
 

 
自己診断の為の指標

 
 これから「気」と取り組んで行く過程に於いて、自分の行動や考え方が正しいかどうか、常にチェックする為の指標を、いくつか掲載しておきますので参考にして下さい。
 

・自身の継続的な向上を求める道こそ本道である。霊能も超能力も枝葉である。

・おごり高ぶるな、常に謙虚であれ、素直であれ。

・自身の力と思うな、大自然の力、与えられた力である。

・自身はその力を蓄える単なる器に過ぎない。器を大きくせよ。

・変化を恐れるな。進歩向上もすなわち変化である。

・どんな素晴らしい事にも心奪われるな、執着するな。

・形式化しようとするな、形を求めるな。変幻自在であれ。

・他と比べるな、自身の道は絶対唯一の道である。

・知り得た真理を利用しようと思うな、ただただ従うのみ
  あくまでも自然体、生かされるまま生きるのみ。

・求められれば拒むな、去る者は追うな。強制するな。

・自身に間違いは無いか、常にあらゆる機会を通じ、あらゆ
  る手段で確認せよ。

・成果は秘する事無く公開し、皆の共有財産とせよ。代償は
  求めるな。


・己を信じよ、我欲を捨てれば神に等しい存在である。
  他力にすがるな。

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