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波動で見る人間の変態 他の認識 真空と気 相対的に感じる光?
波動レベルアップのプロセス 自ら光り輝く 霊的なマイナスエネルギーの特性
波動で見る人間の変態(1999年真理の詩投稿文より)人間を波動で見た時(実際は私は見えるわけではないので、感じた時)その形態はまさしく蚕やその他の昆虫で言うところの変態と同じ様相を示します。
他の認識(1999年真理の詩投稿文より)実際は連続的な変化なので、その一時期だけを捉えて表現する事は出来ないのですが、説明の為に無理やりおおよそのいくつかの段階に分けてみたいと思います。
ここで使用する肉の意識と魂という言葉については、だいたい次のような意味で使用します。
肉の意識
肉体である脳が、その思考や本能的生理作用等によって発する潜在、顕在 意識、あるいは肉の心、想念、イメージ、念、肉の自意識等々・・・。陰?魂誰もが胸の内に授かっている純粋無垢な波動エネルギーあるいは心(真の)、愛、高度の意識(宇宙意識?)、本来の自意識?、陽?
1.第一段階
一般的な人の波動は肉体があり、その肉体の輪郭に沿ってその人固有の波動エネルギーが取り巻いて(貼りついて)います。(人によってその厚みや形は違いますが)
これは自他の肉の意識の蓄積したものだと思われます。
そして、病気の人は病気の部分の異常波動が突出していたり、あるいは欠損していたりします。
また、一部の宗教家や霊能者等は、これまた特定の非常に強力な波動があり、その形態は多様なものがあります。
これは形としては肉体を取り巻いていますが、実はその内なる魂を取り巻いており、その波動が肉体の外に溢れているのです。
こうした人の場合、肉欲や物欲が強く、その求めるものは物質的な充足感であったり、欲望を満たされた事に対する満足感であったりします。つまり、肉の意識が強力である為、その力で魂の波動が完全に封じ込められた状態です。
当然、魂の波動が肉の意識に影響を及ぼす事は殆どありません。
逆に魂の波動そのものが、肉の意識の影響で歪まされてしまっているかもしれません。
魂の波動はどういう形で肉の意識と通じるかといえば、時には直感やひらめきであったり、あるいは無心の安らぎであったりするのですが、こういう人の場合そうした事はほとんどありません。
2.第ニ段階
このような人達が、何らかの導きや自身の気づきによって、気功や座禅やヨガやその他の手法を実践する事により、いずれ魂の波動に気づき、あるいは気づかないまでもその波動の恩恵を受ける様になります。(もちろん、やり方が間違っていたり、それ以上にストレスが多かったりした場合、なかなか進歩しない場合もあるでしょうが・・・。)
そのうち、魂の波動が肉の殻を突き破って少しづつ循環する様になります。
こうなると、その人の波動の形(オーラ?)はほぼ球形となります。
そして、徐々に(人によってそのスピードは個人差があります。)その球形は大きくなり、その波動の密度も濃くなっていきます。
この状態は、魂の波動が大きくなる事によって、肉体の外にまで溢れた事を示し、この時肉の意識はその外側を薄皮の様に覆う形となります。
これは昆虫でいう第一回目の脱皮のようなものです。
こうなると、どちらかと言うと肉欲や物欲よりも、心の安らぎや平穏が何よりの喜びであったりする様になります。
つまり、魂の波動によって肉の意識が影響され始めるのです。(直感やひらめきや潜在意識という形で)
体から溢れた魂の波動は、その人の肉の意識のあり様によってどこまでも大きく、そしてより密度濃くなり続けていきます。
例えると風船のようなものです。
風船のゴムが硬くて厚いとその風船の形や大きさは、ゴムが本来持っている形(例えば人間の形)や大きさに左右されます。
ところが、そのゴムが柔らかく薄くなってくると、その形はだんだん中からの圧力で大きく、球形に近づいていきます。
そして大きくなった分さらに薄くなり続けるといった、非常に良い循環が自然な形で無理無く始まります。
さらに、ゴムが薄い分中と外の空気の状態が伝わりやすくなるのです。
この例で言うところの、ゴムに相当するのが肉の意識となります。
こうなると、宇宙に偏満する愛やハイレベルの意識とも少しづつ通じ始めるのです。
但し、魂の波動は際限無く大きくなり続けるけれども、人間の肉体が無くならない限りその肉の意識は皆無になる事はありませんから、それを覆う薄皮も際限無く薄くなり続けるでしょうが、完全に無くなる事はありません。
つまり、肉の意識(陰?)と魂の波動(陽?)は肉がある限り切っても切れない関係にあり対を成しているものだと思うのです。(巴の状態?)
こうなってしまうと、もう止まりません。ますますその心は安らぎ、肉体は健康となり、他からいろいろな形ですがられても比較的簡単に解決してあげることが出来る(物欲を満たしてあげる事は出来ませんが。)ようになり、ますます良い方向へと無理無く、しかも自然に循環していきます。
3.第三段階
さて、人間が寿命を迎えて死んだとします。
死に方にも色々ありますが、全部のケースは説明できませんので、ここでは通常の死に方を例にあげてみます。
この死が、第二の脱皮です。
死を迎えると、魂はその肉体から抜け出ます。
第二段階まで到達した人の場合は(こんな人の死は今まで見た事が無いので想像です。)空間に巨大な球形のエネルギーとして出ると殆ど同時に、魂の世界に吸いこまれていく(瞬間移動?)のではないかと思います。
薄皮として覆っていた肉の意識が完全に無くなるからです。
すなわち全体(大自然)へと回帰していくのだと思うのです。
ここから先の事はよく分かりません。
何故なら、波動として、もう特定の存在として私の力では感知する事が出来なくなってしまうからです。
次に、(ここからは実際に波動としても実際に、そして感受性の強い人達の体験として間接的にも数多く体験している事です。)第一段階で死を迎えた人の場合ですが、この人の場合が問題なのです。
この場合は、同じ様に肉体から抜け出ますが、魂は生前の肉の意識によって封じ込められていますから、空間に人形(ひとがた)に自立します。
但し、自立するのはまだ良い方で、殆どの場合、生前の最も執着を残したもの(あるいは人、あるいは場所)にすがりつきます。
例えば孫に強い愛着を残したような人の場合、必ず孫にとりつきます。
そしていずれは孫の肉体の中に入り込んでいきます。
これらの事から、肉の意識は生前の意図を実現する様にその動作をプログラムされた波動エネルギー体だと思われるのです。こうなってしまうと、もう自力では魂の世界に行く事は不可能です。
次の世代に託すしかありません。
こうした事から、先祖の供養というものが必要となってしまうのです。
しかし、その正しい供養が行われていないから問題なのです。
供養と言うと、何か宗教的な手法でしか出来ない様に錯覚しがちですが、そんなことはありません。
要するに、魂の波動と同じ様な波動を与えてあげて、自然の肉の意識を氷解させてあげるだけで良いのですから。
この辺りはとても長くなりますので、また機会があれば、そして気が向けば掲載したいと思います。
私は真理も神の存在も、その他のもろもろの事象についても、結局それを認識しているのは自分自身のこころであると思いました。真空と気(1999年真理の詩投稿文)その自分自身の事が何も分かっていないとすれば、そんな自分が何を考えたところで、意味が無いのではないかと思ったのです。
つまり、目盛の無い、あるいは目盛が曖昧な物差し(自分自身のこころ)で何を計ったところで正確な数値を得るどころか、かえって混乱を増幅させてしまうだけだと思ったのです。
何よりもまず、自分自身について確固たる認識を持つ事が大切であると考えたのです。
「自分の本質」、「確固たる自分」、「ゆるぎない自分」、「本当のこころ」とはいったい何なのか?そこから始めるべきだと思ったのです。
最初は理屈で考えました。
全ては「大自然の摂理」のもとに有り続けている。
説明しやすい様に「大自然の摂理」を仮に「神の意志」としましょう。
すなわち大宇宙の森羅万象の全ては「神の意志」によるものである。
当然、私達人間も含まれる事になります。
強引かも知れませんが、このことから神は全てだと私は思うのです。
言い方を変えれば神=真理だとすれば、真理は全てだと言うことにもなります。
結局、神は他に求めなくても、他を探さなくとも、自分自身という最も身近な存在にも神の意志が脈打っているのだと考えたのです。
但し、ここで危険なのは、自分自身は神の権化であるとした時、他はそうでは無いと考えてしまう事です。自分も神なら他の全ても神の権化であるということを忘れてはならないと思います。
さて、それではどうすればその神の意志を自分自身の中に見出す事が出来るのだろう?ここまでは単に理屈で考えただけのことで、理屈だけではとてもそれを見つけるのは困難だと思いました。
そのうち、日常の中で様々な出合いや、導きの中から自然の流れの中で「独自の気功」を実践する様になっていきました。
教祖も無く、経典も無く、偶像も無い、特定の先生も無く(全てが先生)、形式も無く、組織も無い、特別な場所も建物も要らない、お金も要らない(当然金儲けする事も無い)。
要するに「身一つ」で事足りるのです。
だからこそ「独自の気功」と呼んでいます。
その結果(永遠にINGの状態ですから途中経過と言った方が良いかもしれませんが。)私達は誰もが(全ての人々が)胸の近辺に非常に素晴らしい「純粋無垢な波動エネルギー」を授かっている事が解りました。
「純粋無垢な波動エネルギー」は魂かもしれない、神の分身かもしれない、愛そのものかもしれない。
今の段階ではこれこそが自分自身の本質ではないか?と思っています。
いずれにしても、その波動エネルギーに気付く事が出来、それを自在にする事によって、動物から植物、あらゆる人々に至るまで、素晴らしい結果をもたらすことが出来るのです。
素晴らしい結果とは、まず何よりも心が安らぐ、病気が治る、健康を維持できる、直観力が高まる、微細な波動(霊的な波動も含む)を感じる様になる、当然霊的な波動エネルギーを浄化(供養)できる等々(全ての人々にそれぞれの個性が出るため、みんな同じでは無い。)です。
但し、重大な問題点(欠陥?)も有ります。
感受性の高い一部の人達(女性や若い人達に多い)は、微細な波動を感じる様になる事によって、この世は悪い波動がそこここに溢れているため、日常の生活に苦痛を感じる事態になる事があるから困るのです。
極端な例をあげれば、妻が気功に興味を持ち実践する事により、気功に理解の無い夫の波動が苦痛で離婚にまで至ってしまった事もあります。
つまり、自分自身の波動が純粋無垢な波動レベルに近づくにつれ、周囲との波動レベルのギャップが大きくなる事が原因なのです。
胸の波動があまりにも純粋過ぎるのです。
私に言わせれば生みの苦しみといったところだと思います。
この問題は、ある程度の波動レベルに到達することによって解決できるのですが、今のところなかなかそのレベルに到達できる人は少ない状況です。
したがって、あまり他人に積極的にお勧めする事は出来ません。
それでも興味を持たれる人については、そうした弊害が起こるかもしれない事をまず十分説明して了解を得た上で、出来るだけご夫婦で共に取り組める様に説明しています。
私の場合は、初期の段階から妻の理解があり、妻自身の直接の取り組みは無いのですが、妻の波動レベルを私が変えてあげる形で、問題無く共に歩み続けています。
さて、この純粋無垢な胸の波動が全身を色濃く循環する(浸る)様になると、おのずから自然に様々な変化が起こります。
理屈抜きで、極めて自然に変化が起こるのです。
他の認識についても例外ではありません。
例えば他人を判断する時、いくら立派な地位を得た人でも、いくら裕福な人でも、いかに立派な言葉を駆使する人でも、いかに立派な理論や文章を自在にする人でも、ひとたび波動で感じてしまえば一目瞭然です。
むしろ、案外そうした人達の方が波動のレベルが低い(悪い)場合が多いのです。
波動は隠す事が出来ないから、全ての偽善や欺瞞も簡単に見通す事が出来てしまうのです。
逆に、とんでもない常識破りの発見をもたらす事もあります。
何故なら理屈抜きだからです。
例えば、巨大な教団の教祖より片田舎の一介の老漁師のほうが波動レベルが高いと言ったような事も多々あります。
また、心の不安やストレスが胸の気が溢れるだけで、その場で解決してしまう事もあります。
人によっては、自分自身の胸の気が溢れるだけのことで、性格まで変わってしまった人もあります。
例えば気が小さくて、引っ込み思案で、常に不安とストレスを抱えていた人が、突然自分をさらけ出して自然体で生活できる様になったりします。
逆に、胸の気が溢れたとたん、今まで自分を抑えに抑えて無理をして勤めていた会社を、即刻辞めてしまった人もいます。
抑圧されていた本来の自分を取り戻す事が出来たからではないかと思います。
これらのことも全て理屈抜きです。
当人に聞いても何故そうなったか(そうしたか)解らない場合がほとんどです。
おのずから成るのです。
いろいろな宗教を信仰している人達にも面白い変化が起こります。
その人の胸の気が溢れるだけで、信仰を止めてしまうのです。
私が洗脳したわけではありませんよ。(笑)
何故かと聞くと、大抵の場合「教団から授かったお守りやシンボルを身につけているだけで気持ちが悪い、今まであんなに有り難かったのに」とか、「教団の祭壇の前に座ったら気持ちが悪くなった。」とか「自宅にまつっている神様が気持ち悪い。」とか、いずれにしても、今まで理屈で信じていたものが、自分自身の胸の波動で判断できる様になってしまうからなのです。
やはり、ここでもおのずから成るのです。
他にも面白い話は数多くありますが、結局は自分自身の胸の気が溢れ、自身の波動が変わることによって、自然にその波動を基準にして全てを判断する様になってしまう為、無理無く変化が訪れるのだと思うのです。
つまり、自身の胸の気が溢れるまでは、強力な目的意識を持って執着と言われても止むを得ないぐらいの激しい努力が必要だと思います。
何故なら他の強力な欲望や執着に負けてしまう可能性があるからです。
しかし、ひとたび胸の気が溢れてさえしまえば、あとは自身のこころ(本当のこころとつながった肉のこころ)にふつふつと沸いてくる思いのままに素直に生きていけば、それこそが神の意志にかなった生き様となるのではないか?と思うのです。
何故なら、肉の意識を発動する脳細胞のひとつひとつに至るまで胸の気に浸された時、その脳が発動する意識も、必ずや胸の気(神の意志)の影響を色濃く受けたものになるのが必然だと思うからです。
人間って、なんて素晴らしい存在なんでしょう!みんな早く気付いて!
これがわたしの正直な気持ちです。
またまた感覚人間のアバウトな話です。相対的に感じる光?(1999年真理の詩投稿文より)昨夜、あるテレビ番組を見ていたら世界の宇宙計画の番組をやっていました。
その映像の中で、宇宙船内の映像や地球に帰還してからの宇宙飛行士の映像を映していましたがそれを見て感じた事がありました。
今までもそうした映像は見ていたのですが、気のレベルで波動として見た事はありませんでした。
ところが、昨夜フッと思い付き、波動として見てみましたが、宇宙船内の波動は非常に素晴らしく、いわゆる私の言うところの「胸の気」に強く共鳴するものを感じました。
又、地上に帰還した宇宙飛行士の波動は、完全に「胸の気」が溢れた状態である事を確認する事が出来ました。(あくまでも私の感覚でしかありませんが・・・。)
かって私はある真空管関係の会社に勤務したことがあり(約10年足らずの間)、一種の真空管の試作開発から量産に至るまで関わっていたことから、真空について多少の関わりがあります。
それでというわけではないのですが、宇宙飛行する空間は完全な真空ではないにしろ、要するに非常に真空度の高い空間である事には違いありません。
真空というと何も無い空間を想像しますが、実はそうではなく、たとえば重力や電磁波は真空中を伝搬?するという事は、そうしたものは真空中に存在すという事になります。
つまり、何を言いたいかと言うと、地上の様に空気や水蒸気等の様々なものがある空間に比べて、真空の(真空に近い?)空間は、それらが少ない分、「気」のようなエネルギーが充満しやすいのではないか?すなわち充満しているのではないか?と考えるのです。
そう考えると、宇宙飛行士が帰還してから人生観が変わってしまう事も、違う角度から考えてうなずけるような気がするのです。
いずれにしても、私が感覚的に捉えた宇宙飛行している空間は非常に波動レベルの高い空間であったということは確かです。
そしてまた、地上に帰還した宇宙飛行士は(全部は見ていないので、他の人は知らないが)胸の気が溢れた、非常に高いレベルであった(一般人ではこんな高いレベルの人はほとんど居ない)ということは間違いありません。
光で思い出しましたが、霊が見える、霊と話が出来る友人の女友達(但し、気と取り組んだ結果、今はもう霊が見えるといった事は無い)との間での面白い話があります。波動レベルアップのプロセス(1999年真理の詩投稿文より)その当時、彼女は霊が見える、話が出来るだけでは無く、他人の心も読める状態でした。
事実、友人の考えていることをことごとく当ててみました。
そこで、「私の心の中を読んでみて」ということになり、試みてもらいましたが、その時彼女は「北村さんの心は光の塊で眩しくて読む事が出来ない」と言われてしまいました。
また、「北村さんは、私が見ると球形の光の球にしか見えず、あなたは人間ではありません。」とも言われてしまいました。
このことは、私が思うには、たぶん波動レベルに極端に差がある為、一方から見ると光にしか見えない。
つまり相対的なレベルの差によって、光として感じただけだと思うのですが、本当のところはよくわかりません。
同じ様な話は、つい2〜3日前A社のU社長から突然連絡があり、会社に訪れたお客様の女性が、会社の応接室で突然気分が悪くなり、自分の手に負えないので助けてくださいと言って電話がありました。
このU社長は非常に気のレベルが高く、いろいろな人との出会いの中で、沢山の面白い出来事を体験されている方です。
この女性の場合は、U社長と会っているうちに社長の気を受けて自分の中のマイナエネルギーが噴出し出し、それに感応したものです。(悩み事があり、落ち込んでいたみたいです。)
社長の場合、その出てきたマイナスを除去すると言う点では、まだ少し未熟なため、彼女の肉体から出たのはよいけれど、そのまま彼女の肉体を取り巻いたため起こった事です。
不思議な事に、自分の体の中に入っている状態で一体になっている時はそれほどでもないのに、一度からだから外に出て、まとわりつくと気持ち悪いといって大騒ぎをする事がほとんどです。
これは、体から出たとたん、その人の波動がマイナスが出ただけで、その分改善され、その差で気持ち悪いと感じてしまうのです。
そこで、電話で一段落するまで取り除いてあげたのですが、その後聞いた話では、落ち着いた後その女性は「社長は眩しくて、まともに見る事が出来ない」と言っていたと聞きました。
最後は、「気持ちが軽くなった」と言って喜んで帰られたそうです。
このように、相対的に波動レベルに大きな差がある時、それを光として感じる場合があるようです。
重要な事を書き込み忘れましたので、再書き込みいたします。
非常に重要なことなのですが、要するに「光」として感じたから、それが全て良いものだとは言えない、と言う事を肝に命じておく必要があります。
その代表的な例として、過去何度も経験している事なのですが、「金色の光り輝く仏様」のようなものを見る人があります。
実際、私の目の前にその波動エネルギー体が居るのですが、私が感じると、単なるさ迷える「気持ちの悪い波動エネルギー体」なのです。
ところが、人によってはそれが「金色に輝く仏様」に見えるのです。
これは、そこに居る波動エネルギー体の想念(心?)が「自分を金色に輝く仏様だ」と思い込んでいるという事と、それを見ている人が、その想念に感応して、同じ事を「見さされている」だけに過ぎないと思うのです。
このように感応のし方によっては、相手(霊?)にいいように振り回されてしまう事が非常に多いので、十分気をつけなければなりません。
その点、純粋に波動で感じる者は、そうした事が少ないという事はハッキリ言えます。
レイキにしろ、気功にしろ、他人に対してそれを行う時は細心の注意と熟練が必要です。自ら光り輝く(1999年真理の詩投稿文より)私は、原則として自分自身が自主的に取り組むべきであり、他人に対しては充分慎重に行うべきだと考えています。
一般的にはたいした問題は起こりませんが、時に人によってはマイナスエネルギー(霊的なものも含め)に対し、非常に感受性の強い人が見受けられ、そうした人は思いもよらない異常な事態が起こる事があります。
特に、それが激しい人は、過去に霊的な体験のある人、代表的な人としては霊能者があげられます。
つまり、マイナスエネルギーに感応しやすいからこそ霊的な能力があるのです。
このことから、霊能は決して好ましい能力では無く、むしろ生きながら死後の世界に浸っているようなもので、とても恐ろしい事です。
波動レベルアップのプロセスを考えて見ますと、下記の通りです。
1.レイキにしろ気功にしろ、プラスエネルギー(仮に良い働きをするエネルギーのことをさします。)を供給すると、その分マイナスエネルギーが身体から出てきます。2.まず、体内のマイナスエネルギーが身体の外に出る場合、頭頂部、手、足、尾底骨のあたりから吹き出てきます。
たいていの場合、手先や足先に噴出す事が多く、その時指先に痺れた様な感覚が表れたり、鳥肌がたったり、その他人によって様々な感覚が表れる場合があります。もちろん、何も感じない人もたくさんいます。(むしろ、感じない人の方が多い)尾底骨に噴出す事は、よほど熟練しない事には起こりませんから、とりあえず考えなくてもよいと思います。
さて、頭頂部に向かって抜けてくるマイナスエネルギーが問題なのです。
頭頂部へ抜けていく過程において、耳の近辺(側頭部)に到達した時、そこにマイナスエネルギーに感応する部分があるようで、特に霊的能力の強い人はスムースに抜けずに、マイナスエネルギーがその部分で止まり、影響を受ける事があります。
その結果、気分が悪くなったり、持病が一時的に悪化したり、まれに霊的な憑依が起こる事があります。
3.次に、身体から出てしまったマイナスエネルギーですが、必ずそれを持っていた人にまとわりつきます。
つまり、何等かの理由(因縁)があって、その人の内外に止まっているエネルギーですから、自然に出てきたものは別として、レイキや気功の力、しかも他人の力によって強制的にその人から引き離された時、必ずその人に戻ります。
強いものほどその傾向は顕著です。
その結果、2.と同じ様なことが起こる場合があります。
このように、自分自身が身体に持っていたマイナスエネルギーが身体の外に出てくる事が異常の原因であり、それは自分自身の波動レベルが高くなるための一過程なのであり、むしろ、悪いものが出て、自分の波動レベルが高くなりつつある証拠だと言えます。ただ、人によって激しい異常が起こる事があります。
レイキや気功を行う人と、それを受ける人との間のレベルに大きな開きがあるほど激しい変化が起こります。
例えば細いホースで水を放水する時、弱い水圧の水なら問題ありませんが、水圧が強い場合、ホースの抵抗で元栓の接続部分で外れてしまったり、ひどい時にはホースが、蛇が蛙を呑んだ時の様に膨れて、最後には破裂するといったことと同じ様なことが起こるのです。
だからこそ、今の自分のレベルに見合った形で、自分自身で徐々にコツコツと取り組むのが無難であり、しかもその方が確実に自分のものとして身につくのです。(他人のやり方を参考にするのは良い)
どうしても他人のことをやりたい場合、必ず次のことが必要だと思います。
逆に、下記のことが出来ない人は他人のことをやる資格が無いとも言えます。
1.マイナスエネルギーを身体の内外で感知できる事。(身体の外のものは感知できるが、体内に入られると分からなくなる人が圧倒的に多い。)2.感知したマイナスエネルギーを確実に処理(消去、供養)できる事。
それでは、自分自身でマイナスエネルギーを感知できない人はどうすれば良いかと言うことですが、私の今までの数多くの体験から、いくつかの方法を書いてみますので、参考にして、できれば自分独自の方法を見つけてください。
1.身体から出かかっていて、側頭付近に止まっているマイナスエネルギーの対処方法この場合の有効な気の送り方は、両方の手で相手の側頭部を(両方の耳近辺)をは さんで気を送ると効果がある。2.身体から出た後、まとわりついているマイナスエネルギーの対処方
但し、相手のレベルと自分のレベルによって効果がある場合と無い場合がある。2.1. 今までの体験で最も確実な方法は、きれいな水の流れている川、あるいは海のほとりで、草や木の枝等をつかむ方法です。この時、出来れば軽く声に出して「ここはきれいな川(海)ですので、どうぞそちらに行かれて、安らかな日々を送ってください。」といった意味の事を伝えてやると非常に効果がある場合があります。
どのくらいやるかと言う事ですが、気分が良くなるまでと言うしかありません。
私の場合は、この方法で今だかって取れなかった事はありません。
もっとも、昔のはなしで今はそんなことをする必要はありませんが。
ちなみに、今は意識(イメージ)で川や海に流してしまいます。
この場合は、確実にマイナスエネルギーを身体の内外(離れたところのものも含め)で感知できない事には不可能です。
2.2. 次に、これはとても信じられないと思いますが、一応書いておきます。
まず水と日本酒、そして黒砂糖を用意して下さい。
水はコップ程度、酒は盃程度の少量でも結構です。
黒砂糖は塊のもの(大きさは適当、1〜3cm程度)をティッシュか小さい皿に入れます。
これら3点の品を机かテーブルの上に並べます。
そして、2.1. と同様に、軽く声に出して「こちらに、水、お酒、黒砂糖が御座いますので、お好きなものをお召し上がりください。」といった意味の事を伝えてあげます。
そうすれば、必ず3点のうちどれかか、あるいは何点かにまとわり付きます。
ある程度、落ち付いたら、その3点を水の流れている下水や川や海に流します。
感じられる人なら、言葉に出したとたん徐々に3点のいずれか、あるいは全部にすがりついたマイナスエネルギーの波動を感じられるはずです。
但し、この方法は完全な方法では無く、強いものにはあまり効果が無いこともあります。(強い因縁のあるようなものは、一時的に3点のものにすがりつくが、すぐ戻ることがある)
2.3. 最もオーソドックスな方法
マイナスエネルギーを取り除く(消去)には、単純にプラスエネルギーを供給し続ければ、必ずその分取り除く事が出来ます。
従って、どんなに強いマイナスエネルギーにまとわり付かれても、結局それに見合ったプラスエネルギーをレイキや気功によって供給し続ければ、必ず取り除けるのです。この方法がもっとも基本的な方法でしょうね。
但し、即座にとはいきませんので、コツコツと根気良く取り組むのが大原則だと思います。
即座に効果があり、誰でもできるようなものは、麻薬のような恐ろしいものでしか無いと思います。
この他にも方法は色々ありますが、参考に出来そうなものを書いてみました。いずれにしても、霊的なものも含めたマイナスエネルギーを確実に感知でき、しかもそれらを自在に扱えてこそ、他人のことを行える資格があるのだと、少なくとも私はそう思います。
恐ろしい事に、他人のことをする場合、いくら相手が喜んでくれても、実は自分自身が他人のマイナスエネルギー(因縁)を吸い取り、蓄積している事が結構有りますので注意が必要です。
参考になるかどうかは分かりませんが、理想的には自分独自の方法を早く見つける事だと思います。
その為の一助になることができれば幸いです。
以前、近藤さんも自ら光り輝けば影は出来ないといったお話をされていた記憶がありますが、実は私もその通りだと思うのです。眩しいほどに光り輝く光源(他人が説く一部の真理、あるいは他人が到達した一部の真理)を他から持ってきても必ずや影が出来ます。
隅々まで、そして奥深くまで照らす事は不可能なのです。
むしろ光が強いほどその影は暗く深く感じるものです。
それを解決するには一人一人が個々に光り輝くしかありません。
そして、そのそれぞれの独自の光があちこちで輝き始めた時、さらなる相乗効果を生み自然に伝搬していく・・。(あまり良い例ではないかもしれませんが、この前から話題になっている原子力の「臨界」の様に)あくまでも自然に、おのずから光り輝き、おのずから伝搬していく。
そして最後には全体が光り輝く(というよりはもともとがそうだった?)のだと思っています。(昔美術の時間に減色混合というのを習いましたが、種々雑多なそれぞれ独自の光が混ざり合うと、最後は無垢な白い光になるということだったと思いますが、まさしくこの光の性質と同じ事だと思います。)
それではどうすれば自らが輝けるのか?とてもそんな事は不可能ではないか?という疑問を持たれる方は少なくないと思います。
ここからは「私見」ですが、私は今までの体験から、私達はもともと純粋無垢な完全なる光源を授かっていると感じるのです。
ただ、その事に気付いていないだけだと感じるのです。そして、それに気付けないばかりに、自信(自らに対する信頼)を無くし、その不安や恐れや悩みやあるいは欲望といった悪想念と言う「様々な色の物質」が、せっかく授かっている尊い光源を取り巻き、塗り重ね、塗りつぶし、さえぎってしまっているだけだと感じています。(前記の光の減色混合に対し、加色混合は絵の具等の色の場合、種々の色を混ぜていくと最後は真黒になるという事と同じですね。)
従って、まずはその「様々な色の物質」たる悪想念を出さなくする事が大切です。(無理にではなく、自然に出なくなるのが理想、その為の手法は気功を始めあまたあると思います。)
それさえ実現すれば、あとは自らの光源の力により、それまで蓄積されてきた「様々な色の物質」は自然に、徐々に氷解していくのです。
これらはとても難しい事のようですが、実はいとも簡単なのです。
何故なら、もともと私達は完全なのですから、それに気付き、本来の姿に回帰するだけなのですから。
なにも特別な力を他に求め、他から取って付ける必要は無いのです。
完全なるもの、それはもともとの私達であり、そして全てなのだと、私は強く感じるのです。
1.物に取りついている場合
霊的なマイナスエネルギーの驚くべき特徴について書いておきたいと思います。
霊的なエネルギーが単なる物理的なエネルギーでは無いと思える特徴的な性質があります。
例えば、ある霊的なエネルギーが何かに付いている、例えば家にある人形に取り付いているとします。
そして、その人形に取り付いているエネルギーにその家の人が影響されているとします。
するとその人形からは継続的にその人に対してマイナスエネルギーが纏わりついてきます。
この時、その人からマイナスエネルギーを取り除いてあげようとした時、その人からいくら取り除いても、いくら川や海へ流し続けても際限無く纏わり付き続けるのです。
普通物理的なエネルギーなら、そこで新たなエネルギーが発生していない限り、間接的にしろどんどん取り除いていけば必ず減少して最後には無くなっていくはずなのです。
ところが、霊的なエネルギーの場合取り除いても取り除いても無限とも思えるほど次から次へ纏わりついてくるのです。
人形が新たなエネルギーを発生しているわけでは無いのにです。
つまり人形に霊的なエネルギーが取りついている限りその影響から逃れる事は不可能なのです。
しかし、人形に取りついている霊的エネルギーを直接人形から取り除く、つまり人形から引き離し川や海へ流し去ってしまうと、即座にその影響から開放されることが出来るのです。
要するに、霊的なエネルギーの影響から開放されるにはその大元を確実に探し当て、その霊的エネルギーそのものを確実に処理しなければ、永遠にその影響から逃れる事は不可能なのです。
どこかの臭い消しの宣伝ではありませんが「元を断たなきゃダメ」だと言えます。
従って、その人が自力にしろ、他力にしろいくら自分自身のマイナスエネルギーを取り除こうと努力しても、外部からの影響を受けている場合は、その根本的原因を見つけ出し処理しない事には、いくら努力してもその影響からは逃れる事が出来ない、すなわちそれ以上のレベルアップが出来ないのです。
この事から自分が身を置く家屋敷や身の廻りの波動レベルを改善していくことが非常に重要であると言えるのです。
家屋敷や身の廻りの波動改善の方法については、「気で見るあの世とこの世」の「気の充実の為の環境整備と心構え」を参照してください。
2.宗教的なお札等の場合
また、上記と良く似た状況でも全く異なった原因の場合もあります。
たとえば宗教的なお札などのケースがそれです。
宗教的なお札などは、単にお札に宗教的な霊的エネルギーが付いているだけでなく、そのお札はその宗教に関わる霊的な集団(霊団)と、ある程度時間と空間を超えて波動で繋がっているのです。
従って、いくらお札から霊的エネルギーを取り除こうと思っても、そのお札は外部の霊団と波動で繋がっていますから、取り除いても取り除いても際限無く溢れてきます。
つまり、お札等は宗教団体の霊団と連絡している異次元の空間がそこにポッカリと口を開けているのと同じなのです。
前記の人形に取り付いているだけの場合は、人形に取り付いているものを取り除けば簡単に解決できますが、この場合はお札を正しい方法で処理しなければ解決できません。
正しい処理の方法に付いては「気で見るあの世とこの世」の「気の充実の為の環境整備と心構え」の「家屋敷の中のマイナスの強いものを遠ざける」を参照してください。
お札の場合で面白いのは、例えば「お蔭様で家族一同全員幸せで健康な日々を送らせていただいております。長い間お世話になり本当に有難う御座いました。どうぞ〇〇教の本山の方へ御戻り下さいませ。有難う御座いました。」などと口に出して言えば必ずお札に付いていたその宗教に関わる霊的な波動はある程度流れ去っていきます。
もちろん波動が分かり自在に出来る人なら、この方法を使えばあまり力を使わなくても比較的楽に処理できてしまいます。
3.写真の場合
写真の場合はお札の場合とほとんど同じです。
ただ、写真の場合は写真を撮影した時の時間と空間を瞬間的に固定して切り取った形ですので、写真からは際限無くその写真を撮った時点の波動が溢れてきます。
つまり、そこに過去の空間に繋がる異次元の空間がポッカリと口を開けているのと同じなのです。
従って、例えば自分自身の過去の写真を見ると気持ちが悪いというような事が起こります。
そこには過去の自分が居るのと同じだからなのです。
もっと恐ろしいのは、例えばある土地がマイナスエネルギーが強いので浄化したとします。
そして浄化する前の写真を撮ったとします。
すると、その土地は既に浄化されているにも関わらず、その写真には過去のその土地の時間と空間が切り取られているわけですから、写真が有る限りそこに浄化前の土地に繋がる異次元の空間がポッカリ開いており、そこから際限無く浄化前のマイナスエネルギーが溢れてくるという恐ろしい事が起こります。
この様に、写真の取り扱いには細心の注意が必要です。
コピー機で写真をコピーした場合も同じです。
またデジタルカメラの電子的なデータやテレビ等の映像でも同じ事が言えます。
写真を写したディスプレイの映像からも、又写真データを収めたフロッピーディスク等の媒体からも波動が溢れますから注意が必要です。
逆に、波動の良い場所等の写真からは、その場所の良い波動が溢れますから、この特徴を利用すれば現地へ足を運ばなくてもその恩恵を受ける事が出来るのです。
私のHPの「波動の良い写真集」もこのような目的に利用していただければ嬉しい限りです。
4.書や絵画、彫刻、工芸品等の場合
書や絵画、彫刻、工芸品等の場合は必ず、それを作成した人の波動が出ています。
また同じ人が作成したものでもその時の気分や体調、精神状態等が如実に現れます。
従って恨みを込め作成したようなものからは、その恨みの波動が溢れるのです。
逆に波動レベルの高い人が作成したものは、たとえそれが芸術的な価値がないものでも非常に素晴らしい波動の溢れたものとなります。
書や絵画の場合コピー機でコピーしても同様の波動が出ます。
つまりコピー機や写真機は映像だけで無く、波動もコピーしたり映したりするのだという事を覚えておいてください。
5.霊的エネルギーの移動について
霊的なエネルギーが移動する場合、壁や構造物等に関係無く簡単に通過出来るものもあれば、窓やドアを開けてやらない事には移動できないものもあります。
今までの体験から人間に悪影響を与えるもの程、地を這ってしか移動できなかったり、窓やドアを開けてやらなければ移動できません。
それだけ波動が荒くて重い、より物質に近い、この世的な波動であると言えます。
従って、家の窓を締め切ったままにしていると、上記の理由に加えて太陽光も入らないので良くありません。