信仰と気

迷信とたたり

迷信
迷信は果たして本当のことなのでしょうか?

実は、本当と言えば本当ですし、嘘といえば嘘になるのです。

なんともいいかげんな答えですが、そうとしか言い様がないのです。

何故かと言えば、人間の意識(想念、念)はエネルギーですからどんな迷信にしろ、それが有ると心から思い込んでいる人は、その迷信が現実化する恐れがあります。

つまり、自分自身の想念がそうした迷信のイメージを作り上げ、その自分自身が作り上げたイメージによって影響されてしまうのです。

当然同じ様なイメージを抱いている人々の数が多ければ多いほど、またそのイメージが強ければ強いほど、それらのイメージが共通のイメージとして固定化し、それらはより強い影響力を持ってしまう事となります。

気で見るあの世とこの世」の想いは実現するに述べた様に、それだけ思い込むという事は恐ろしい事なのです。

従って、迷信を頭から信じていない人にはまったく影響がありません。

例えば、カレンダーに記載してある六曜(ろくよう)すなわ ち、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六種の星(六曜星)を旧暦一月一日から順次に配したものですが、これなどは初期の頃は仏滅が無かったものをある 時期から、仏滅をいれた事により、順番にずらしてしまったという話があります。

つまり、まったく根拠がないと言っても良いほどなのです。

ところが、たとえば仏滅に慶事を行うと不幸があると信じていると、それを実行してしまった場合、何か起こるのではないかという不安感から同様のマイナスエネルギーを呼び込み、本来の自分の波動を狂わされ、実際に不幸が起こることがあります。

また、まったくそれに関係無く起こった不幸も、それに結び付けてしまう事もあるのです。

結局、不幸のもとは迷信そのものにあるのではなく、それを信じ不安がる人々の意識が原因であるということが言えます。
ことほどさように人間の発する意識エネルギーというものは強いエネルギーであり、特に思い込んでいればいるほどその力は強く、より現実化しやすいのです。

木を切るとたたる?
よく神社や寺などにある古木を切るとたたりがあるといったことを聞く事があります。

また実際にそうしたことを耳にする事もあります。

この原因は古木に限らず草木は生気、すなわちプラスエネルギーを放っています。

特に古木はしっかりと大地に根をおろし、幹も太く枝葉も茂っているわけですから、その放出している生気も通常の草木よりはるかに多いのです。

それゆえに、悪い土地やいわく因縁のある土地などでは、様々なマイナスエネルギーが纏わり付き、それなりにプラスマイナスのバランスがとれている状態なのです。

もちろん、古木に限らず草木は全てそうした傾向があります。

中でも竹やぶの竹などは非常に良い気を放っている為、変なものが居付き易いということが言えます。

さて、そんな古木を切り倒したとします。

どうなるかと言えば、それまで古木が発する生気をよりどころにし、バランスを保っていたマイナスエネルギーが、そのよりどころを失い、それを切り倒した人間に取り付く事があるのです。

通常は取り付かれても何も起こらない場合がほとんどですが、中には霊感の強い人や、たまたま体力の弱っている人、あるいは迷信を信じ心より恐れている人などには思いもよらぬ強い影響がある場合があります。

これがたたりなのです。

このように良いものであるばかりにマイナスエネルギーに取り付かれ易いのです。

このあたりを十分注意しないと、一見して悪い波動のものでも、その本質は良い波動のものである事が結構多いので、はやまってその良し悪しを判断してはいけません。

人間においても同じ様な事が言えます。

本質的な波動が良いばかりに、いろいろなマイナスエネルギーにすがられ人一倍苦しい思いを強いられ、一見した時、波動の悪い人のように感じられる場合があります。

井戸を埋めるとたたる?
皆さんは井戸を埋めるとたたるといった話を聞いた事があると思います。

地方によって違いがあるかとは思いますが、私達の地方では、井戸を埋める時は生抜き(しょうぬき)をしなければならないとか、完全に埋めずに息抜き用のパイプを通しておかなければならない、といったような事が言われているようです。

井戸は中央構造線のような大規模なものではないにしても、地中深く穴を掘っているという事で、いわく因縁のあるような井戸を除き、地底からの良い気が立ちあがっています。

その為、そのプラスの気を求めて様々なマイナスエネルギーが寄り集まり、纏わりついて、井戸から立ちあがるプラスエネルギーとそれなりにバランスが保たれているのです。

その井戸を完全に埋めてしまった場合、井戸から立ちあがるプラスエネルギーをよりどころにしてバランスがとれていたマイナスエネルギーがそのよりどころを失い、井戸を埋めた人達に取り付くことがあるのです。

その結果、古木の時とまったく同様に、霊感の強い人や、たまたま体力の弱っている人、あるいは迷信を信じ心より恐れている人などには思いもよらぬ強い影響がある場合があるのです。

この場合、完全に埋めずに息抜き用のパイプを、たとえ細いものでも通しておけば、井戸からの気がそのパイプを通して継続して地上に湧きあがる為、マイナスエネルギーは今まで通りそこに在り続ける事ができるのです。

このように昔からの言い伝えの中には、現代人が失ってしまった研ぎ澄まされた感性に基いた合理的かつ重要なメッセージが含まれている事があるのです。

もっとも古木の場合も、井戸の場合も気を自在にする事により、マイナスエネルギーを確実に感じる事が出来、しかもそれを正しく処理することができさえすれば、そんなことは何等心配する必要が無いと言えます。

普請たたり?
よく家を新築した後などに、家族が病気になったり、亡くなったり、その他いろいろな不幸が起こった時、それを普請たたりと言う事があります。

これは本当にたたりなんでしょうか?

常識的に考えた場合、家を建てると言えば一生のうちにそう何度もあるわけではなく、一般の人々にとっては一世一代のとても大変な行事であると言えます。

資金的なものや隣近所との関係等も含め建築前後の心労は大変なものがあると思います。

したがって、たたりとかに関係なく、その心労がもとで病気になったり、亡くなったりする事があったとしても矛盾はありません。

ところが、そうとばかりも言えない部分もあるのです。

今まで、何人かの人達を通じて体験しているのですが、新築した家に引っ越してから体の不調を訴える場合があります。

そして、その不調をいくつもの病院で訴えても原因不明で、大抵の場合自律神経失調症の診断を受け、精神安定剤やビタミン剤の投与等で済まされてしまい、なかなか治らないことがあります。

そして、どうしようもなくて人づてに私のところを訪れる人があります。

こうした場合、まずその家屋敷に砂を撒き、そのマイナスエネルギーを川や海へ流してしまいます。

そして、それが原因で家族に纏わり付いているマイナスエネルギーも同様にして処理してあげます。

すると、ほとんどの場合数日でうそのように解決してしまうのです。

このように、たとえその土地が更地であっても、また古い屋 敷ならなおさらのことに様々なマイナスエネルギーが居付いている事があります。(自分の土地だと思ってみたところで、地球誕生以来数十億年、その土地でど んな生き物が生死を繰り返し、どんなことが起こったかは私達にはすべてを知るすべはないのです。)

それらのマイナスエネルギーは、「気で見るあの世とこの世」の「家屋敷の中のマイナスの強いものを遠ざける」にも示した様に、時には屋敷の井戸や木等の発するプラスエネルギーに纏わりついていたり、あるいはそれなりの理由があって家や屋敷やその他のものに取り付いているものもあります。

これらのマイナスエネルギーはプラスマイナスのバランスがとれていたり、あるいはこの世に残した想いを満足させていたりで、それなりに一応安定した状態にあるのです。

ところが、家の建築工事にあたり、その土地を掘り返した り、あるいは古い家を壊したり、あるいは古い家財類を捨てたり燃やしたり、あるいは古い井戸を埋めたり、邪魔な木を切ったり、あるいは他から庭石をもらっ たり買って来たり、捨てたり等々・・・他にも様々な状態の変化をもたらします。

ここが問題なのです。

言ってみれば、様々なマイナスエネルギーの長年の安眠を妨げるような形になるのです。

今までの私の数々の体験からハッキリ言える事ですが、マイナスエネルギーはそれなりに安定している時は体積も小さく、一見しただけではその存在すら分からないぐらいの時もある程です。
この状態では大抵の場合ほとんど周囲に悪影響を与える事はありません。(もちろん、例外もありますが・・・。)

ところが、それらが安定して存在しているよりどころが失われた時、その体積は何倍にもなり、手当たり次第に周囲のものに纏わりつこうとします。

その時、古木や井戸の時と同じ様に、人によっては非常に強い影響を受けてしまう事があるのです。

特に、それらのマイナスエネルギーとたまたま波長が合ってしまったり、何等かの関わりがある場合は余計に受けやすくなります。

これが普請たたりです。

いにしえより、地鎮めと称した行事を行うのは、こうしたマイナスエネルギーを鎮めその悪影響を無くす為の手法であったと思われます。

しかし、本当に効果を得るには、確実にマイナスエネルギーを感知し、確実に処理できる能力が必要である事は言うまでもなく、現在の様に形ばかりで地鎮めと称した行事を行っても、まったく意味がない事があります。

このように考えてくると、いまでこそ形骸化してしまっていますが、私達日本人の祖先は禊祓いや地鎮めや言い伝え等に見られるように、非常に研ぎ澄まされた感性と偉大な能力の持ち主だったのではないでしょうか?

少なくとも私はそれを強く感じると共に、偉大なる先祖をもてた事を心より誇りに思う次第です。

これからも、形式主義に惑わされず、その本質を見抜き、真に正しいものを再発掘し、後々までも伝えていきたいものです。

これこそ、「温故知新」かもしれません。

供養

信仰と供養
大抵の日本人は信仰の目的として挙げると思われるのは、先祖の供養だと思います。

特定の宗教に入信していない人においても、先祖の供養だけはおろそかに出来ないと考えている人は少なくないと思います。

先祖を供養するという事は、自分自身もまた子孫に供養してもらいたいという暗黙の気持ちが込められているのではないでしょうか?

では何故供養が大切だと思うのでしょうか?

人によっては確固たる信念を持って供養している人もあるでしょうが、ただなんとなくという人も多いのではないでしょうか。

ある意味では、ただなんとなく、これが非常に大切なのかもしれないのです。

潜在意識の中にある、供養をしてほしいという自分に関わる無数の先祖の想いが、ただなんとなくという形で顕在化しているのかもしれません。

気で見るあの世とこの世」の「霊と魂と意識エネルギーの関係」 で述べた様に、今までの私の数多くの体験から、肉体を持って生きている段階からすでにプラスの気が溢れているような特別な人は除いて、一般的には肉体が滅 びた後は自力では浄化は不可能であり、他力により供養という形で浄化して貰うか、あるいは自然界のプラスの気によって浄化していくしか無いと思われるので す。

同じ事を繰り返しますが、自然界に存在するプラスの気は、 意識エネルギーの密度から比べたら非常に希薄で、それだけで浄化するには大変時間がかかりますし、前者の子孫(他力)によって供養して貰う場合でも、供養 する側がプラスの気について無知で、正しい供養の仕方(といってもプラスの気を霊体に与えるだけですが)が分からない、あるいは間違っている場合は全く効 果が無いのです。

それでは正しい供養とはどうすれば良いのでしょうか?

正しい供養のあり方
正しい供養は、まずこの世にさ迷っている霊的エネルギーを確実に認識できないことには話になりません。

次に霊は確認できたとしても、それを正しく処理(供養)できなければまったく意味が無いのです。

ところが現在行われている供養はほとんどの場合形ばかりで あり、たとえばこのお経をあげれば成仏することになっているのだといった具合に、霊的エネルギーの確認も出来ない(従って当然正しい供養も出来ない)者 が、この世的な資格を得たと言うだけで、決まりきった形式だけで堂々と供養と称した行為を行っているのが現状です。

しかし、霊的エネルギーを含めた気が分かり、その気を自在に出来る人なら簡単なことなのです。

とは言うものの、それなら誰もが気を感じ、気を自在に操る事が出来るかと言うと、残念ながらそうはいかないから問題なのです。

では、どうすればこの問題がクリアーできるのでしょうか?

それには、気を感じる事ができなくても誰もが、他人に頼らなくても確実に供養できる方法があれば良い訳ですが、なかなかそんなうまい手は見つかりません。

ここで、完全ではありませんが気が分からない人でも出来る方法がいくつか有りますので参考までに掲載しておきたいと思います。

お供えの効果と正しいやり方
霊的なエネルギー体は基本的にはプラスの気を供給してあげればそれだけで浄化できるのですが、先程も述べた様に、そんな事は誰でも出来るわけではありません。

それに代わる方法として体験的にお供えをする事が大変効果があることが分かっています。

たとえば、今目の前にいくつかの霊体が居るとします。

気で見るあの世とこの世」の「家の中に最も気のレベルの高い場所をつくる」にも示しましたが、その時黒砂糖とお水、お酒をお供えします。

そして、声に出して「ここに黒砂糖、お水、お酒がありますので、皆さんどうぞお好きなものをお召し上がりください。」と伝えます。(レベルの低い霊体ほど声に出して確実に伝えないと伝わらない事があります。)

すると、目の前に居た霊体はたちまち黒砂糖や水や酒のいずれか、あるいは全部に纏わりつきます。

不思議な事に、それだけでその霊体の波動が変化するのです。

つまり、お供えをする前の波動よりお供えをした後のほうが格段に波動が柔らかく穏やかになるのです。

マイナスレベルの弱いものではそれだけで浄化してしまうものもある程です。

その逆に一時的には纏わりつくもののほとんど波動の変わらない強いマイナスのものもあります。

しかし総体的にはお供えは非常に効果があると言えます。

ではそのお供えの仕方について具体的に述べてみたいと思います。

但し、必ずこうした方法でお供えしなければいけないという 事ではなく、前に述べた様に気が分かり、気を自在に出来る人なら、こんな事をしなくても供養できるのだという事を忘れないで下さい。(要するに方法は無限 にあるという事を忘れず、一つのやり方にこだわらないようにする事が大切です。)

ただ、そんな人の場合でもこうしたお供えを併用する事で、必要以上のエネルギーを浪費する事無く、比較的楽に処理できるといった効果はあります。

また、当然ですがさ迷えるものが何も居なければそんなお供えなど必要ないという事も忘れないで下さい。

1.お供えする物はどんな物が良いか

これは、原則的には黒砂糖、お酒、お水 が非常に効果が有り、それ以外必要無いとも言えますが、場所や時間が許すなら理想的にはご飯や味噌汁、お茶、果物、お菓子等、供養の対象となる人が生前好 んだものをお供えすればそれに越した事はありません。(幼児の場合ミルク等も効果がある。)

お花なども良いでしょう。特にハーブ等は気のレベルが高いので良いと思います。

また、生前好物であったなら、たとえばコーヒーやケーキなども良いと思います。

いずれにしてもどんな物でも気のレベルの高い、波動の良い物をお供えする事が大原則です。

極論ですが、食べ物などお供えしなくとも、非常に気のレベルの高いものでさえあれば、それだけで霊的エネルギーは心地良く浄化できるのですから、例えば熟練者の気を注入した砂やティッシュペーパーだけでも良い、といった常識外れな事も言えてしまうのです。

つまり、霊的なエネルギーを感じる事さえ出来れば、形はどんな方法であれ、要するに浄化されれば良いのですから、形式にこだわっていてはいけないと思います。

2.お供えする時の注意
お供えする時はどんな物でも量は少なくてもいいですから、出来るだけ数多く、必ずすぐ食べられる形でお供えする事が大切です。

例えば、りんごや柿なら皮をむいて食べやすい大きさに切って(小さくても良いから数を多い目に)お供えします。

また、菓子類なら包装してあるままお供えせずに、包装をほどき、これも食べやすい大きさに切って小さくても良いですから数を多い目にお供えします。

くれぐれも、戴いたからと言って包装のまま全部をお供えするようなことは止めてください。

その場に置くのはお供えしたものだけにして、それ以外の余分は通常の保管場所に置いてください。

お供えの取替えですが、これは出来る範囲で行ってください。

たとえば毎日取り替えたいと思うなら毎日替えれば良いし、そんなに取りかえる事は出来ないと思うなら、その様にすれば良い。

要するに、自分達の思うようにすれば良いのであって無理をして負担になるような事では長続きしないだろうし、そうした嫌々やっているような意識が霊体に悪影響を与え、かえって供養にならない場合があるからです。

また、前にも述べた様に、お供えしたら必ず声に出してお供えした事を伝えてあげる必要があります。
レベルの低い霊体ほど声に出して伝えてあげないと、そこにお供えがあっても分からない場合がほとんどなのです。

3.お供えしたお下がりの処理
お供えして下げたものは口にしないで下さい。

何故ならお供えしたものにはマイナスエネルギーが付いていますから処分した方が無難です。

この様にマイナスエネルギーが取れるからこそお供えの効果があるのであり、せっかくとれたマイナスエネルギーをまた再びわざわざ取り込むことはないのです。

4.お供えの場所
お供えの場所は日本人なら当然仏壇が最も理想的です。

ところが、ある時一人の女性に憑依した霊が、「私達の家の仏壇は仏 像やらお経やら位牌やらが気持ちが悪くて、とても居れたものではないので私達は外の方が気持ちが良いので軒下に居ます。」と言ったことがありますが、これ が本当かどうかは別としても、仏壇は気のレベルで家屋敷の中で最も心地よい場所(気のレベルの高い所)である事が理想なのです。

しかし、前述の様に良いと思って一緒に仏壇に収めてあるものが実はとんでもない不浄なものであることが多いのです。
つまり仏像も位牌もお経も人間の手によって作られたものです。

従って、それらを製作した人の波動が悪いと、そのままその人の波動がそれらから出ますから、こういうことが起こります。

ましてや、製作する時は根を詰めて作りますから、その無意識の念のようなものも存在していますし、いやいや作ったものであったりしたものである場合はなおさらです。

また、信仰している宗教に関わる自分の家系以外の霊的な存在が仏壇の空間を支配している事もあります。
こんな場合は先祖をまつっているのではなく、信仰する宗教に関わる他人の霊的存在をまつってしまっているということになり、それこそ自分達の先祖は軒下にさ迷っているかもしれないのです。

もし、あなたが仏壇に嫌な感じを覚えたら、べつに仏壇以外の棚の上とかカラーボックスの中とかでもかまいません。

要するに霊的な存在が居心地が良いプラスエネルギーの溢れたところなら、どこでも良いとも言えるのです。

このように形式にとらわれてばかりいると、かえって供養どころか苦しめてしまうことがありますから注意が必要です。

5.お供えしてある部屋は出来るだけ屋外に面した窓等を開ける
お供えをして、そこにマイナスエネルギーが纏わりついたとき、そのマイナスエネルギーはプラスエネルギーが供給された分(あるいは満足した分?)お供えした物から離れ部屋に溜まります。

これらは、たとえ波動が変わってもまだまだ良い波動とは言えない為、屋外に面した窓等を開放してやると勝手に屋外へ流れ去っていきます。

この場合原則として下水や川や海(それらが近くにない時には森や林)の方向へ流れますから、出来ればその方向の窓を開けてあげた方が効果があります。

又、マイナスエネルギーの中には窓の腰が高いだけで外へ出られないものもありますので、理想的には掃き出し窓のように屋外へ出るのに障害物の無い窓が良いと思います。

開けている時間や回数は、一日中開けているわけにはいけませんから、出来るだけ多くと言うしかありません。

 
先祖の拝み方
この世をさ迷っている先祖は「気で見るあの世とこの世」の「霊と魂と意識エネルギーの関係」及び「霊はどこに居るか」にも示した様に、魂+意識エネルギーと思われますから、正しい供養は魂をこの世に引き止めてしまっている原因である生前の意識エネルギーを取り除いてやるか、あるいは打ち消してやる事なのです。

要するに変な拝み方をすると、かえって先祖がこの世をさ迷っている原因となっているのと同じ、自分自身の意識エネルギーを先祖に対してぶつけるような逆効果を生んでしまい、かえって苦しめてしまう結果を招いてしまう恐れがあるのです。

以下に良い拝み方の例と悪い拝み方の例を述べてみます。(あくまでも参考例です)

1.良い拝み方

・感謝の気持ちで拝む。
・お礼を言う。
・喜びを報告する。
・自分が瞑想する時と同様に仏壇や先祖に対して太陽などから暖かい心地良い光がさし込んで仏壇に溢れるようなイメージで拝む。
・学習塾ではありませんが、頑張るぞ!と言った具合に明るく元気である事を伝える。
・難しいお経などでは無く、日常の会話をする。(但し明るい話題)
2.悪い拝み方
・愚痴をこぼす。
・願い事をする。
・自慢をする。
・非難中傷する。
・うらみつらみを言う。
・嘆き悲しむ。
なくなった人の事をいつまでも忘れる事が出来ず、故人を想い嘆き悲しみ続ける事は、へたをすると亡くなった人を自身の意識エネルギーで、この世に引きとめ続けてしまう結果を生んでしまう恐れがあります。
こんなことを言うと非難されるかも知れませんが、いつまでも故人を想い続けるより、一日も早く忘れてあげることこそが正しいあり方だと思います。
・見様見真似でお経をあげる。
気のレベルの高い人が、お経の意味を十分理解した上で唱えるのなら、それはそれで良い波動が伝わりますから良いのですが、波動レベルの低い俗人が、お経の意味も分からず見様見真似で唱えるのは、上記と同様その悪い波動で先祖を苦しめますから止めた方が良いと思います。
いずれにしても、人間の意識エネルギーは基本的にはマイナスであり、その マイナスエネルギーが原因で先祖がこの世に拘束され、さ迷っているのだということを理解していれば、何が悪く何が良いかは自ずから分かることだと思います ので、皆さん自身でいろいろ工夫してみて下さい。
効果の有る型破りの供養
お供えの仕方や拝み方について書いてきましたが、これらは大切な事では有りますが完全なものではありません。
そこで、もっと効果のある型破りな方法を掲載しておきます。

もちろん気の分からない人でも大変効果があります。

今の私は霊的なマイナスエネルギーを浄化(供養)する時、イメージ(意識)を利用します。

意識の力でマイナスエネルギーを川や海へ導いてあげるのです。

もちろん意識だけではなく、確実にマイナスエネルギーを感知しその形状や波動や位置等を確認できていない事には、完全に導いてあげることは出来ません。

さて、マイナスエネルギーを川や海へ導いてあげる時に感じる事なのですが、最初は例えば嫌がる犬を無理やり目的の所へ歩かそうと思って鎖を引いても、足を踏ん張り抵抗する事がありますが、それと同じ様にマイナスエネルギーを導くには非常に強い力(エネルギー)が必要です。

ところが、その先端がいったん川面や海面に届いてしまうと突然自分の力(意志?)でものすごい勢いで流れてしまうのです。

そうなると後は勝手に流れていくマイナスエネルギーを軽く後押しする程度の力(エネルギー)で済んでしまうのです。

つまり非常に労力が少なくて済む合理的な手法なのです。

この時川や海へ流れていく様子はまさしく大蛇や龍のように空間をうねって行くのです。(中には地面を這ってしか行けないようなものもあります。こんなもの程私達人間に強い悪影響を与えます。)

今から述べる方法は、こうしたマイナスエネルギーの特性を利用したものであり、常識では考えられない型破りのものです。

しかし、かって未熟な私がまだイメージでマイナスエネルギーを処理出来なかった頃、この方法でほぼ100%解決する事が出来た事によって、今の私があると言っても過言ではありません。

それが出来ていなかったとしたら、今ごろはマイナスエネルギーに押し潰され発狂していても不思議はないと思うほどです。

それではその方法を以下に箇条書きしてみます。

1.まず前述した方法によりお供えをします。

2.お供えをしてある程度時間を置いて(目安として十数分)から次のような内容の言葉をかけます。

その一例を示しますが、このような内容に似たような言葉であれば良いと思います。

「あなた方がこの世をさ迷っている原因は、あなた方が肉体を持って この世に生きていた時の様々な想い、すなわち恨みつらみ、苦しみ、悲しみ、嫉み(そねみ)、妬み(ねたみ)、痛み、あるいは信仰心といった様々な想いに よって、本来肉体が滅びた時即座に平穏と安らぎの魂の世界に旅立てるはずのあなた方を、この世に長きにわたって拘束し引き止めてしまっているのです。
あなた方が救われる道はただ一つ、その生前の様々な想いをただいまからご案内いたします〇〇川の清流に流す事によって、初めてそれらから解放されて平穏と安らぎの魂の世界に旅立つことが出来るのです。
ただいまからご案内申し上げますので、どうぞ私の後に続いてください。」

ざっとこんなところですか。

敏感な人なら、この後頭や肩が重くなったり、気持ち悪くなったりする事で自分に纏わりついた事が分かると思います。

でも御安心下さい。それはこちらの言葉を理解した上での事ですので悪い影響はありません。

但し、言っておいて実行しない時には悪影響があるかもしれません。

3.そのまま目的の川へ行きます。
歩いてでも自転車でも車でもかまいません。

ただ電車等人ごみへ行くのは避けた方が良いと思います。

4.川へ着いたら再び川へ着いた事を言葉に出して伝えます。
その言葉の参考例は次の通りです。(あくまでも参考例です。皆さんでより効果のある言葉を工夫してみて下さい。)

「ただいま〇〇川の清流に到着しました。どうぞ皆さんこの川にお越しになられて平穏と安らぎのひとときをお過ごし下さい。
そしていっときも早く一日も早く平穏と安らぎの魂の世界に旅立たれる事を心よりお祈り申し上げます。」

5.後はマイナスエネルギーが自分の体から離れ流れ去るのを待つだけです。
この時、中には地面を這ってしか行けないようなマイナスエネルギーがありますから、出来るだけ両手で木の枝や草をつかんだ方が効果的です。

唯一の問題は、それではどれだけの時間そうしていれば良いかということだと思います。

私の場合は、未熟なその当時でも流れていくのを全て感じる事は出来ましたから、たとえ何時間かかろうとも全部流れ去り、気持ち良くなるまで立ち尽くしていた事を思い出します。

感じられない人の場合はある程度時間を決めて行うか、何回かに分けて定期的に行うような事しかないと思います。

たとえば海や川へ魚釣りに行った時などに行えば、遊びも兼ねて非常に良い方法だと思います。

但し、言葉に出して伝えてあげないと全くと言って良いほど効果はありません。

要するに、レベルの低い、私達人間に悪影響を与えるような強いマイナスエネルギー程、その事を意識してなおかつ言葉で強い波動として伝えてあげないと伝わらないのだという事を忘れないでください。

なを、この時川や海へ流れていくのは霊体の意識エネルギーだけですので御安心下さい。

意識エネルギーから解放された魂?がどこへ行くかは、私には全く感知し得ない領域ですので何とも言えません。

6.ここで注意が必要なのは、川や海ならどこでも良いかという事です。
これは難しい問題ですが、できればきれいな川や海の方が良いでしょう。

但し、熟練者の気を注入した小石や砂を撒くことによって、汚い川や海でも波動レベルである程度よくする事は出来ますが、その場合は目で見て多少汚れていてもあまり問題はありません。

また、きれいな川や海でもいわく因縁のあるようなところは避けた方が無難でしょう。

結局、完全に処理するには自分自身が気を感じる様になるしかありません。

究極の供養?

それでは究極の供養なんてあるのでしょうか?

宇宙と同様、私達は常に変化し続けているわけですから「究極の」などと言う事は有り得ないと思いますが、私の独断で、少なくとも今この時点での最高と思われる供養について述べてみたいと思います。

気で見るあの世とこの世」の「霊はどこに居るか」に述べた様に、先祖、すなわち自分の先祖に関わる霊的エネルギー(魂+意識エネルギーの集合体?)は、体験的に私達人間の肉体の中に最も密度高く数多く存在していると思われます。

従って、自分自身の波動レベルを限りなく高めていくことこそが最大の供養だと言うことが出来るのです。

自分自身の波動レベルの高め方に付いては「気で見るあの世とこの世」の「気の充実の為の環境整備と心構え」及び「気を充実させる」に述べましたので、そちらを参照して下さい。

ただ、気を充実させる、あるいは高めるという表現をすると、何か他から取って付けたような印象を受けてしまいますが、実はそうではなく、私達が本来、自然の摂理として授かっている尊いプラスエネルギー(魂?)に気付き、その本来の姿に回帰するだけの事なのです。

つまり、他に求め他から取って付けるのでは無く、むしろ先 祖を通じて今まで蓄積してきた先祖系や縁があって自分の家系に関わったもの(縁辺系)、あるいは自分自身の念(執着心や間違った常識観念等の既成概念)等 の様々なマイナスエネルギーを氷解させ、それらの因縁から解放されることによって、本来の尊い素晴らしい魂の波動に満ち溢れた自分自身を取り戻すだけの事 なのです。

その事により、様々な波動を感じることができるようになり、さらにはそうした波動を自在にできるようになる事によって、結果的には自分の肉体以外(たとえば墓や仏壇や肉親あるいは土地等々)にさ迷っているマイナスエネルギーをも浄化し供養する事につながるのです。

少なくとも現時点では、これこそが究極の供養であると私は思うのです。

何も他に頼らなくても自分自身の力でそれが出来るのだという、自分自身(自分自身の魂というクリーンなプラスネルギー)に対する絶対の信頼を持つことが最も大切です。

現代人は文明という便利な道具を手中にしたことにより、それに完全に依存し切ってしまい、本来の自分自身が持つ(授かっている)素晴らしい力を忘れ去ってしまっている、すなわち自分を見失っているのではないかと思うのですがいかがでしょうか?

今こそ本当の自分とは何かを見つめ直す時なのです。

誤った供養
今まで述べてきた様に供養は自分達の手で行うものであり、決して他人にしてもらうものでは無いのです。

ましてや永代供養とか称して、お金によって他力に依存するなどということは本来の供養からは程遠いものであり、先祖の供養を自ら放棄したようなものです。

そして、その結果自分自身が供養してもらう権利をも放棄してしまったことになります。

基本的には自分自身の先祖の供養、すなわち自分自身の供養は自分が肉体を持って生きている時でしか成し得ないのです。

他力に依存した誤った供養には大きく二通りあります。

まず、霊能者などの霊能力のある人に供養してもらう場合によく見られる一例をあげておきます。

霊能者はほとんどの場合霊的なマイナスエネルギー、すなわち意識エネルギーと感応しやすい体質の持ち主です。

霊的なマイナスエネルギーと完全に導通して一時的にしろ、継続的にしろ完全に一体となってしまうからこそ見えたり話せたりするのです。

この場合は、ほとんどの場合霊能者が霊的なエネルギーを吸収し、自分の体内に蓄積してしまうのです。

もし、先祖の霊的エネルギーが目の前に居て、それが居なくなったとしたら、ほぼ間違い無くより深い暗闇の霊能者の持つ霊的エネルギーの世界に取り込まれてしまったものと考えて間違いありません。

次に、もう一つの代表的な例として、今度はより強いマイナスエネルギーによって弾き飛ばしてしまうケースです。

これは宗教家によく見られます。

つまり念力という生身の人間が発する強力な意識エネルギーによって、さ迷っている霊的マイナスエネルギーを弾き飛ばしてしまう、あるいは寄り付けなくしてしまうものです。

つまり磁石と同じで、N極に対してより強いN極で弾き飛ばすのと理屈は同じです。

この場合は、もし、先祖の霊的エネルギーが目の前に居て、それが居なくなったとしたら、強力な念力によってどこかへ弾き飛ばされてしまったと思って間違いありません。

もちろん全てがそうだとは言えませんし、中には立派な能力者の方が見えると思いますので、そうした方々のことを言っている訳ではありませんので誤解のない様にお願いいたします。

いずれにしても他力に頼り切って供養をしてもらうという事は、こうした危険性を伴うのだという事を肝に命じる必要があります。

仏壇とお墓

仏壇やお墓に先祖は居るか?
仏壇やお墓に先祖は居るのでしょうか?

またしてもいいかげんな答えですが、居ると言えば居るし、居ないといえば居ないとも言えるのです。

「死んだら墓へ行く」と心底から思い込んでいる人は亡くなったら必ず墓へ行き墓に居るでしょうし、同様に「死んだら仏壇へ入る」と思い込んでいる人は仏壇に入ると思います。

つまり、生前の思い込みという強力な意識が死後もその力で自分自身を拘束するからです。

このあたりは「気で見るあの世とこの世」、「霊と魂と意識エネルギー」の「霊はどこに居るか」を参照してください。

この様に生前何かに強い執着を持ったり(例えば愛する人や孫やあるいは骨董品や宝石等々)、強く思い込んだ事は意識エネルギー(念)として蓄積され、その強さや密度に応じて一定の期間死後の自分を拘束するもと思われます。

従って、死後の世界をいろいろ思い描くのは自由ですが、現 実に存在している世界ならまだしも、実際には有りもしない架空の世界を思い描き(例えば天国とか地獄を具体的にイメージする)、憧れ、思い込んだまま亡く なった時、それがたとえ想念の世界であったとしても、その想念は肉体を捨て去った私達にとっては現実の世界以上に強い影響力を持ち、死後の私達をその架空 の想念の世界に拘束し、閉じ込めてしまうといった恐ろしい事態を招いてしまうのです。

そして、同じ様な想念を抱く人の数が多ければ多いほど、また強ければ強いほどその力は強大なものとなります。

特に宗教の世界は大勢の人々が共通の意識下に集いますから、そうした危険性が非常に高いと言えます。

ではいったいどうすればいいのでしょう?

それは簡単な事なのですが、死に臨んだ時「死んだら何処へ行くのかな〜?」といった幼子のような素直な気持ちで臨めば、必ずや自分にふさわしい行くべき世界に行けるのではないかと私は思うのですが、本当のところはいったいどうなんでしょうね?

位牌やお経の本当の目的?
仏壇の中にはほとんどの場合位牌やお経があります。

では、その本当の意味はなんでしょうか?

もちろん、前に述べた様に死んだら位牌に入るのだと心底から思い込んでいる人は位牌に入る(取り付く)と思いますから、その場合は位牌は先祖そのものとなります。

しかし、私はその為に位牌が有るとは思わないのです。

例えば、気のレベルの高いプラスのエネルギーに溢れたお坊さんが位牌に戒名を書いたとします。

すると、その位牌の戒名を表す文字からは、それを書いた人の素晴らしい波動が溢れるのです。

また、同様に気のレベルの高いお坊さんがお経を書いたとします。

するとそのお経の文字からは位牌の時と同様に素晴らしい波動が溢れるのです。

そうなると、もはや仏壇の中はプラスエネルギーの溢れる素晴らしい空間となるのです。

その仏壇に色々なお供えをして、自分達の先祖に関係するマイナスエネルギーを引き寄せ、そして引き留める。

お供えの効果もさることながら、そうしたマイナスエネルギーは位牌やお経等から溢れるプラスエネルギーによって、何も供養しない場合よりはるかに短期間で浄化されてしまうのです。

この様に見てくると、昔こうした供養の手法を考えついた人達はまさしく気を感じることが出来、そしてそれらを正しく扱う事が出来た人達だったのではないでしょうか?

それほど合理的な、しかも誰でも(気を感じる事の無い人でも)知らず知らずのうちに供養する事が出来る、素晴らしい手法だと感じるのです。

その上、気のレベルの高いお坊さんが仏壇の前でお経でも唱えよう物なら、たちまちのうちに先祖は浄化してしまうということになります。

何故なら気のレベルの高いお坊さんが、そのお経の意味を完全に理解した上で唱えれば、さ迷える者達にお経の意味が伝わると同時に、気のレベルの高い人は、その声にも素晴らしい波動が溢れますから、当然のことながら即座に浄化されてしまうという事になるでしょう。

但し、こうした効果を望むには、あくまでも気のレベルの高いお坊さんであることが大前提である事を忘れてはいけません。
逆に言うなら、気のレベルが高く、気を感じることが出来、気を正しく扱う事が出来るなら、別にお坊さんで無くとも良いといったことが言えてしまうのです。

また気のレベルの低い人が全く同じ行為をしても全く効果が無いどころか、先祖を苦しめ、逆効果となってしまいますから恐ろしいのです。

残念ながら、現代はよく葬式仏教などと巷で言われている様 に、ほとんどの場合形式主義に陥り、お坊さん自体が一定のルールに基き資格を得さえすれば、たとえ気が分からなくても、また霊的なエネルギーを感知出来な くても、また当然その正しい処理が出来なくても、当たり前の様に、しかもお金まで取って供養と称する行為を生業(なりわい)とする事が出来てしまうので す。

また、それをしてもらう側も、位牌やお経を書いていただく 文字の波動の良さや、仏壇の空間の波動の良さ、そしてお坊さんの気のレベルの高さよりも、葬式に来ていただくお坊さんの人数やお礼の金額、そして戒名の金 額やお経の金ぴかの表装、あるいは仏壇そのものの金額等に心を奪われてしまっているのが現実だと言えます。

もっとも、供養をする側もされる側も気を感じる事も出来ない人達が圧倒的多数なのですから、止むを得ないと言えば止むを得ない事なのですが・・・。

出来る事なら一人でも多くの方々が正しい供養のあり方について気付いていただきたいものです。

最も理想的なのは当事者であるお坊さん達全てが気をよろしくする事が出来る様になっていただく事だと思います。

金ピカの仏壇の効果
先程、仏壇そのものの金額等に心を奪われてしまっていると書き、あたかもそれが全く意味が無いような事を言いましたが、実はそうとばかりも言えない一面があるのです。

高額な、金ピカの仏壇は当然の事ながら金箔を貼りめぐらしてあります。

金はいたずらに高価なだけでは無く、気で見た時非常に波動が良い(気のレベルが高い)金属です。

いにしえから、金を重宝したのは単に希少価値があるからという理由だけでは無いと思います。

つまり、古代の人々は気(波動)を感じる事が出来、現代人が失ってしまった、その研ぎ澄まされた感性で金の波動の良さを認識していたのではないのでしょうか?

前に述べた様に仏壇は、先祖のマイナスエネルギーを打ち消す(供養する)為にプラスの気が溢れた良い空間であることが不可欠です。

この意味では金ピカの仏壇はその条件を満たしており、気が分からない人でも立派に供養できる素晴らしい道具であるとも言えます。

もっとも、気(霊的なマイナスエネルギーを含めた気)を感じ自在に出来る人なら、そんな物は無くとも、いわば身一つで立派に供養できるということも忘れないようにして下さい。
 
 

健康と気

気で病気は治るか?

さて、気で病気を治すことは出来るのでしょうか?

基本的には治ると思います。

但し、治るまでの時間は簡単に治る病気から何年もかかるものまで様々です。

順を追ってお話しますと、人間の身体は例えば中が中空の細い管を無数に束ねて出来ていると考えてください。

いわゆる鍼灸等で言う経絡と同じですね。

そのルートは大雑把に(あくまでも大雑把にです。)捉えた時、基本的な流れは一方の端が手や足、そして尾底骨辺りに、そしてもう一方の端は頭頂部に至っています。

もちろんこの基本的なルート以外にも無限に近い無数のルートがあります。

この管の中に様々なマイナスエネルギーが一杯詰まっているのが私達人間の一般的な姿なのです。

そしてその波動が肉体の外にまで溢れているのがオーラと言われているものです。

マイナスエネルギーが詰まっていると言っても、曲りなりになんとか流れていれば病気になる事はあまり無いと思いますが、問題は何等かの原因でその流れが止まっている場合に病気になる事があるのです。

例えば、足首を捻挫した事が原因で、その捻挫した部分の何本かの気のルートが詰まってしまい、捻挫が直ってからもその詰まりが回復しないとします。

そして、その詰まったルート上に例えば心臓の重要な部分を通るルートが有ったとします。

すると、足首の捻挫が原因で心臓病になる可能性もあるのです。

足首の捻挫は既に痛みも無く、完治していると思っていても、このように足首の気の道が詰まっている事によって、そこと全く関係無いと思われる心臓が病気になるようなことも有るのです。

それでは、これを治すにはどうしたら良いのでしょうか?

簡単なことなのです。

つまり、胸の気を基準にしてひたすらプラスの気を取り込み続ける。

そうするとプラスの気を取り込んだ分だけマイナスの気が身体の様々なルートから抜けていきます。

その抜けていくルートには順序が有り、例えば各ルートに抜けていく順番に番号を付けてあると仮定します。

プラスの気をどんどん取り込んだ時、1番から順番にマイナスの気が抜けていき、2番、3番と順番に抜けていきます。

この時、病気の原因が早い番号、例えば1番のルート上にあったとしたら、その病気は1番のルートがプラスの気で満たされ循環した時点で治ってしまいます。

つまり、簡単に短時間で治ってしまうのです。

ところが病気の原因がもっと後の番号だったとします。

例えば、一億番目だったとします。

こうなると、病気を治すには一億本のルートをプラスの気で満たし、循環させなければその病気は治らないと言う事になるのです。

こういう場合はひょっとしたら本格的に気と取り組んでも何年もかかる可能性があります。

いずれにしても、最終的には肉体の細胞の一つ一つに至るまでプラスの気が磁石の様に循環し出した時、その人の肉体が授かった寿命(天寿)を完全にまっとうできる状態になるのではないでしょうか。

但し、授かった寿命は人により異なり、時には若くして亡くなる運命にある人が居るかもしれません。

従って、少なくとも授かった寿命(天寿)はまっとう出来るのではないかとしか言い様が無いのです。

特に遺伝的な病気についてはどうなるのか体験した事がありませんのでよく分かりません。

アメリカでは既に遺伝子に一定の年齢になったら発病するように組み込まれている病気が発見されています。

これらの病気までも気で治るのか?それとも遺伝子の操作による治療によってしか治せないのか?私には分からないところです。

理屈で考えた場合、正しい気との取り組みを何世代にもわたって続けた場合、ひょっとしたら遺伝子に変化が起こる可能性はあると思います。

簡単に治る病気

病気だと思われているものの中には外部からの霊的波動エネルギー等に影響を受けている事が原因である場合があります。

例えば、急に肩がこったり、あるいは腰が痛くなったり、関節が神経痛のように痛くなったり、目眩がしたりといったような症状を訴える人の中には、何等かの霊的なエネルギー
 
 

色々な手法の具体的解説

気の高め方の一例

気は意識によって完璧にコントロールできます。

従って、上手にイメージする事さえできれば、たとえ気を感じる事ができなくても実際に気はそのイメージどおりに動かせるのです。

その基本さえ理解すれば、後は各人がそれぞれのやりかたで取り組めば良いのです。

例えば、気を取り込む時、深呼吸したほうがやりやすいという人ならそうすれば良いし、又体操の様に動作を伴ったほうがやりやすいという人ならそうすれば良い。

このようにやり方はそれぞれが自分に合った形で工夫すれば無限にあると思います。

一人でやったほうがやりやすい人、大勢でやったほうがやりやすいし楽しいという人、二人でやりたいと言う人、寝禅のように寝る時やりたいという人、要するに自分に合った方法を見つければ良いのです。

もちろん気を感じないよりは、感じられた方がやりやすいのは当然のことです。

しかし、人にはそれぞれ個性がありますから、他人と同じでなければならない理由はどこにもないのです。

例えば、私の所に出入りしてみえるある人は気を感じることはほとんど無いにもかかわらず、気のレベルは一級品ですし、自分は分からなくても周囲の人達がそれを感じ教えてくれる事によって、結果的には自分が感じたのと同じ効果を得ています。

またある人は気を感じることにかけては一級品ですが、気のレベルはもうひとつです。

そういう人は気のレベルの高い人と組んでやった方がより効果が高いでしょう。

まるで、お釈迦様の十大弟子のような話ですね。

説明しだすときりがありませんので、気を充実させるための瞑想方や、注意しなければいけない事については、「気で見るあの世とこの世」の「気を充実させる」に詳しく書いてありますので読んでみてください。

最も重要なことは、この空間には一口に気といっても悪いものから良いものまで無限に近く存在していますから、必ず良い気を求め続けなければならないということ。

その良い気の基準は、他に求めなくても自分自身が持っているということ。

そして、気を充実させるための瞑想をするときは必ず気のレベルの高い良い場所で行うということです。

それには常に身を置く家屋敷の気のレベルを高める事が重要になってきます。

特に瞑想は悪い気(例えばオカルト的な気)に対してほとんど無防備になりますから、良い場所で行う事が大前提です。

くれぐれもお寺や人ごみや、その他いやな感じのする処では行わないようにする事です。

瞑想の仕方の前に、それではどうすればよい場所を作れるかということになります。

近くに、「波動の良い写真集」の写真のような良い場所があれば簡単ですが、そうはうまく行きません。

そこで、自分の手で少しづつ良くしていく方法があります。(あくまでも一例です。)

まず砂(海砂がよい、無ければ川砂でもよい)を用意します。量は丼一杯くらいで結構です。

そして瞑想をしたりして、気分の良く体調の良い時にその砂を手に取り、揉むようにして自分の胸にある素晴らしいプラスの気を、腕を通じて手のひらから砂に注入するイメージで砂に自分の気を入れます。(イメージだけである程度までは出来ます。)

その砂を家屋敷の四隅に置きます。但しアスファルトやコンクリートの上はダメで、直接地面に置く必要があります。

これで時間がたてば、徐々に家屋敷の気のレベルが自身の気分の良い時のレベルに保たれていきます。

これは、自分の波動レベルが落ち込んだり、あるいはその他の理由でレベルが落ちたとき元に戻してくれる重要な働きをしてくれます。

つまり、土地を良くする事によって自分のレベルが今以上に落ち込まないように歯止めをかける意味があります。

あとは、徐々に自分のレベルが上がったと思う度に、この砂に自分の気を入れていけば、自分のレベルと一緒 に家屋敷のレベルも上がっていきます。(気を自在に出来るようになると、こんなめんどくさい事をしなくても良いのですが、あくまでも初心者の話ですし、一 例に過ぎません。)

この繰り返しが自分の力で家屋敷のレベルを高めていくことになるのです。

ところが、この方法の問題は都会のマンションなどに住んでおられる方々の場合、自分の住戸だけ良くするというのは難しいという事です。

そういう場合はマンションの敷地全体に試みるしかありません。

瞑想のしかたについて、それぞれ皆さんなりにやり方があると思います。

結局のところ、これがベストだという方法は無いのです。

自分にあった方法を見つける事が一番だと思います。

よく瞑想によって無になるということを聞きますが、私の場合はあくまでも気を充実させるということが基本ですから、最初は良い気に対して意識を向けるということが最低限必要だと思っています。

つまりトリガの役目をするものが必要だと思っています。

但し、瞑想をはじめたら何も考える事は無く「求めるものはなにもない」状態になります。

瞑想している間中何かを考えたり、求めたりしていたのではすなわちそれは瞑想ではないからです。

それでは本題に入ります。

まず、良い気の基準は何かということになりますが、これはあくまでも私の体験から言うだけのことですが、人間は誰でも素晴らしい純粋無垢な波動エネルギーを胸に持っています。

大抵の人が信じられないと思いますから、取り合えず仮説ということにしておいてください。

胸のどこかと言えば、気功で言う「?E中(だんちゅう)」すなわち乳首と乳首を結んだ線の中央部分の少し奥まったあたりということだけで、正確な場所はあまりこだわらなくても結構です。

大前提として、その内なる自身の胸の波動(魂?の波動)を心から信頼するという気持ちが必要です。

すなわち自分自身の内なる神性に絶対の信頼を置くという事が必要なのです。

そして、瞑想の一例ですが、まず自身の胸の内に光り輝く素晴らしい塊をイメージします。

つぎに周囲にも同じような光が満ち溢れていることをイメージします。

周囲のその光が自分の胸の部分を通してどんどん流れ込んでくる事をイメージします。

自分の胸の光球がそれを受けてどんどん大きくなっていくことをイメージします。

ピンポン球からソフトボールの球、ドッヂボールの球、さらには自分を覆い尽くすほどに大きくなって行く事をイメージします。

それにつれて、自分の中の悪い波動、荒く、暗い、あるいは冷たい波動が手先や足先、頭頂部、尾底骨あたりから噴出していくイメージをします。

このようなイメージで始めれば、あとはただなにも考えずただぼんやりといった具合です。

私の場合姿勢や呼吸法にはこだわりません、まったくの自由です。

但し、ここでも注意が必要です。

今までの何人もの人の体験から、人によっては瞑想の途中に体がゆれてきたり、激しく動いてきたり、あるいは邪念がとりとめもなく浮かんで来たり、無性に悲しくなって泣けて来たり、その他にも様々な異常な現象が起こる場合があります。

この場合はそうした事にあまり意識を集めることなく、なされるままにたんたんとやり過ごしていくということが大切です。

いちいちそれに関心をむけていくと、かえって体調が悪くなる場合があります。

これと良く似た話が、お釈迦様の逸話として残っています。

お釈迦様が瞑想していると、いろいろな魔物が次から次へと出てきて、様々な誘惑をしました。

たとえば、あんな楽な生活を捨ててまで苦しい思いをする事は無い、今すぐ修業を捨てて、またあの楽な生活に戻ろう、といった具合です。

しかし、お釈迦様はそんな事には目もくれず修行を続けたというような話です。

ただ私の場合は「修業」という言葉はなにか抵抗があります。

私は修業とは、自分自身の内なる素晴らしさをひたすら信じ、生かされている事に感謝し、生かされるままに、たんたんと、現実を精一杯受け止め消化していく事だと思います。

つまり、日常をたんたんとやり過ごしていくことこそ修業だと思います。

今生かされている生活の場こそが私達に与えられた最もふさわしい修業の場であり、出家や難行苦行と称して特別な場所や手法を他に求めなくても十分だと思うのです。

気は胸から出し入れする

私の場合はあくまでも「独自の気功」ですのでヨガや気功等についてはごく一般的な知識しかありません。

基本的にはチャクラとかツボとかという意識は全く無く、人間の肉体の全ての細胞の一つ一つに至るまで、磁石の様に「良い気」が余すことなく循環する事が理想であると考えています。

従って、そこに至る過程として一時的に体の特定の部位に気を集中し、仙道で言う「小周天」や「大周天」のような事は行いますが、それはあくまでも一時的なものであり、私の場合は気は自然のままにあるがまま溢れるままに開放しています。

もちろん集める事も放つ事も自由に出来ますが、普段は自然のままに開放した状態で居ます。

ただ一点、「良い気」の基準をあくまでも自身の(誰でも授かっている)「胸の気」に置いていることが特徴と言えば特徴でしょう。

これは、今までの数多くの様々な体験(霊的な体験も含め)から得られたもので、その波動を私の場合は「魂」と呼ばれているものではないかと思うのです。

ではその「胸の波動」ですが、その胸の波動と同じ波動を取り入れるには、私の場合その対象は太陽であり、地球の中心であり、時には大樹でありといった具合に大自然から取り入れる事を大原則としています。

つまり、大自然に有るほとんどのものから胸の波動と同じ波動を取り入れる事が出来るのです。

中でも太陽がその対象としては最もふさわしいと感じています。

事実今まで殆ど太陽を中心に胸の波動を大きく(高く)してきました。

ただ、ここで注意が必要なのは、それらの大自然の波動を体のどの部位から取り込むか(吸収するか)という事です。

例えば、太陽の場合いくら良いと言っても、そこからは有害な放射線や紫外線、電磁波等も放射されているわけです。

もちろんそれ以外にも「良い気」とは言えない雑多なエネルギーが沢山放射されているはずです。

ではそれらの雑多な波動の中から、どうして「良い気」だけを選別する事が出来るのか?という問題が出てくると思います。

この問題をクリアー出来れば、その対象が何であろうと、例えば「良い気」が全体の1%しか無いようなものからでも「良い気」だけを選別して取り入れる事が出来てしまうのです。

そのやり方が、これまた私のやり方の独特のものだと思います。

既成の気功でもヨガでも禅でも、ほとんどの場合こうしたことには無頓着で、まるで空気を吸い込んだり、食べ物を取り込むようにして、呼吸法や体操によって「雑多な気」を取り入れています。

その結果、気功やヨガや禅をやっていない人に比べれば気のレベルは有る程度迄高くなりますが、その効率は非常に悪く、しかもその波動レベルも「雑多な気」であるが為にあまり高い(良い)とは言えません。

いくらエネルギー量が多くなってもその質が良くならないのです。

それは、誰でも極めて簡単な方法(但し気を感じる事ができる人で無いと無理ですが)で証明する事が出来ますが、長くなりますのでここでは省略します。

参考になるかどうかは分かりませんが、私の場合はこの問題を初期の頃から重視しており、外から気を取り入れる時は胸から吸い込む事に徹しています。

こうする事によって、少なくとも胸の波動より悪い気は全てフィルターを付けたように除外でき、すべて胸の波動以上のものだけを取り入れる事が出来るということが体験的に分かっています。

逆に気を放つ時も、あくまでも胸から放つのです。

そうすれば純粋でクリアーな気を放つ事ができます。

つまり気を取り入れるのも放つのも全て意識によるコントロールだけで行え、呼吸法や体操など一切必要無いとも言えるのです。(もちろん人によってはそうしたものと意識を併用する方がやりやすい人も居ます。特に気を感じる事ができない人)

そして、日頃私は自分の波動の質をあらゆる手段をもちいて検証し続けています。

何よりも波動の質を重視しているからです。

気の良し悪しの見分け方
「真の気」という意味で、私は「真気」と呼ぶ事により、ほかの気と区別しています。

もちろん、それは「胸の気」(魂?の波動、全体に通じる真の自分?)です。

それほど、「気」と一口に言っても多様なのです。

波動として感じるものを全て「気」として安易に受け入れてしまう事ほど恐ろしい事はないのです。

つまり霊的な存在も気として感じ、その元凶である肉の意識(想念、イメージ、念)も気として感じ、その他の物理的なエネルギー(例えば電磁波)等も気として感じる事ができるからです。

それらを全て気として、呼吸法にしろ動作にしろ、様々な手法により受け入れていたのでは、確かに健康や心の安定は得られる事も有るかもしれませんが、それは単に今の自分より相対的にレベルが高いだけの事だからかも知れないのです。

私は、この意味では気を高めることよりも、真に良い気(正しい気?)を求める事の方が先決であり、重要な事だと考えています。

気の良し悪しを区別する方法としては、以前ここにも書き込みましたが、私流の初心者向けの簡単な良い方法があります。(体験的に見つけた方法ですが、完全な方法ではありません。)

この方法によると、時にはいかに高名な中国の気功家でも、その気が消えうせてしまう事すらあるのですから驚きです。

そして、その方法は子供騙しのような、しかも常識外れ様な簡単なものなのです。

次のものを用意します。

1.水

水道水で良く、コップや湯呑に入れる。
2.日本酒
消毒用エチルアルコールでも良いが、日本酒の方が安いと思う。

コップや湯呑に入れる。(盃程度でも良い)

3.黒砂糖
塊(約2〜3cmの大きさ)の黒砂糖1〜2個をティッシュペーパーの上に置くか、適当な器に入れる。
上記の3品を適当な所(例えば机の上)へ並べて置きます。置く順序は問いません。

そして、小さい声で結構ですから、例えば「ここに黒砂糖、酒、お水がありますので、お好きなものをお召し上がりください」といった具合に声に出します。

すると、本当の気以外のものは必ず3点の内どれか、あるいは幾つかに寄りつきます。

そして、そのまま2〜3日も放置すれば消えて無くなります。(但し、霊的なものの場合はそうは簡単にはいきませんが、寄りついたものが気持ち悪いのですぐ分かると思います)

本当の気はそんなものには寄りつきませんし、消えて無くなるような事はありません。

ただ、この方法の最大の難点は、気を感じる事が出来なければ分からないという事です。

気を感じる事の出来る人は一度自分の気や他の人の気を試してみてください。


遠隔浄化法

家や屋敷を浄化する(マイナスエネルギーを除去し、波動レベルを高める)場合、その場に足を運ばなくても電話一本で浄化することが出来ます。

その方法について書いておきます。

まず、浄化したい土地や建物やその周辺の写真を送ってもらいます。

もちろん、気を感じる事が出来る人は嫌な感じの場所を中心にその周辺の写真を送ってもらいます。

その写真を元に原因となっているもの(場所)を特定します。

次に電話口に砂をバケツ等に入れて用意してもらいます。

海砂がもっとも良い(天然の塩分を含んでいるため気を注入しやすい)のですが、無ければ川砂あるいはホームセンター等で売っている園芸用の砂やセメント用の砂等でも良い。

電話でその砂に気を入れます。

その時、砂に相手の手を置いてもらうと気が入れやすくなります。

まずその砂を近くの海あるいは川、又はドブ川等水の流れているところに撒いてもらいます。

きれいな水が流れている川や海が理想ですが止むを得ない場合はドブ川でも効果は望めます。

これはマイナスエネルギーを流す場所を確保する為です。

もし、近くにそうした所が無ければ、電話を通じて他の場所、例えば他の(例えば伊勢)の川や海へ流します。

次に浄化したい家屋敷やその周辺にその砂を撒いてもらいます。

砂はコンクリートやアスファルト等の上ではなく直接地面に撒かないと効果が半減します。

少しずつでも出来るだけ多箇所に撒いてもらいます。

嫌な感じのところは重点的に撒いてもらいます。

砂を撒き終わったらもう一度電話してもらい、砂を撒いた事によって家や屋敷から沸きあがってきたマイナスエネルギーを、先程の川や海やドブ、あるいは伊勢の川や海へ流します。

その時、相手の人の身体からも家屋敷に関わる、今まで蓄積していたマイナスエネルギーが噴出してきますから、それも一緒に流してしまいます。

おおよそですが、15〜30分程度で終了します。

これで浄化完了です。(もちろん限られた空間と当事者が土地から影響されていたマイナスエネルギーだけの事で、他人や他の全てを浄化することは不可能ですが・・・。)

この方法で、今まで多くの人達に喜んでいただく事が出来ました。

もちろん、その人達は気を感じる事が出来る人達です。

残念ながら気を感じる事の出来ない人達には効果は分からないと思います。
 
 
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